タイムカプセル

投稿者: | 2020-12-20

 こうして日曜日に何を書こうかと考えながらPCに向かう。11月25日に始めたこのブログ、思っていたより頻度高く書けている。書いている最中にはない不安が時おり襲ってくる。「明日は何を書こうか、何が書けるだろうか」と。それが強くなり過ぎてしまうと続けるのは厳しくなるんだろうと思いながらの日々だ。今のところ毎回ノープランで机につき、いざ書こうとすると、不思議と書きたいことが湧いてくる。もしかしたら少し経験が積み重なった結果なのかなとちょっと嬉しい気持ちだ。今のところは……。


 昨日読んだ本の中にこんな言葉があった。「生きているってことは、きっと僕にはまだ役割があるはずだ。命を燃やしながら、世の中に新しいものを創ることができる一日があるってことです。」私も世の中に新しいものを創りたい。でも今日は日曜日で仕事は休みなので家でゴロゴロしていたりするわけで“命を燃やしながら”何かをするということからはちょっとかけ離れた感じで過ごしている。“全力”がモットーの私ではあるが毎日バリバリバリバリは頑張れない。“その時”のために身体と精神を休ませることは、私は必要だと考えている。「明日の朝おまえはもう息をしていないかもしれないんだぞ、ゴロゴロしていていいのか!?」と言われると返す言葉が見当たらないが、やはり「そこまで毎日毎晩深く突き詰めて精進していかなければ真理にはたどり着けないのだろうか」と疑念を抱いてしまう。それが今の私の正直な限界だ。休まないと頑張れない。


 ゴロゴロしていようが何をしていようが脳は何かしら常に考えていると思う。考えているというか働いているというか、もしくは機能しているというべきか、頭は常に動いている。映画を観たり本を読んだり、見るともなしにバラエティー番組を観ていても、あるいはランニングしていても、脳はいつも回転している。「何かを創る」という行為は目に見える物体を創るということだけではないのではないか。自分の中に生まれる例えば新しいイメージや決意みたいなものも、他者にとっては既知のアイデアな場合があるが、自身にとってはオリジナルの新しい創造物だ。“命を燃やしながら”という表現にはそぐわないけれども、創られたものが世の中に秀でた何か素晴らしいものである必要がないのであれば、私たちは生きている限り何かを常に創造している。


 昨日TVの報道番組で旧ユーゴスラビアでの紛争時代に起きた銃撃シーンの映像を観た。「NO !」と叫びながら自然と涙があふれ出した。こんなことが起きない世界にしたいと思った。心が燃えていた。「命を燃やしながら」という言葉は、「強い意志と覚悟を持って」と訳せないだろうか。あらゆる刺激や生まれた感情を強い意志と覚悟を持って受け入れられれば喜多川さんが示唆する“新しいもの”を創ることができるのではないか。だとすれば強い意志と覚悟を育む努力は怠るべきではない。


 そして今日も私のこの小さな創造物が書き上がった。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください