高校生らしさ

投稿者: | 2020-12-26

 少し前に“ブラック校則”なるものが批判の的にされた。高等学校や中学校での制服に関する規定が厳しすぎるということらしい。制服の他カバン、靴、靴下、中には下着の色の指定までされているものがあるそうだ。それはちょっと行き過ぎているような気がする。その学校が考える“高校生らしく”ということを一つ制服を通して具体的に提示しているのだろう。そこまで厳しくしなくてもいいが、決まった制服をみんなが着ることは個々の家庭の経済的格差が露見しないので、余計な変な差別が生まれることを回避する一助になる利点があると思う。その点で私は制服制は賛成だ。


 高校生が「高校生らしさ」って何ですか?と先生に聞くことがあると思う。具体的にこうしろああしろという指示ではなく、「高校生らしく行動しなさい」と言われたときに湧いてくる素直な疑問だと思う。教科書には書いてないだろう。先生方は何と答えているのだろうか。「言われたことを文句を言わずに実行する素直さ」や「迷惑にならないように慎む控えめな態度」、もしくは「物事をはっきり伝える潔さ」だろうか。「やりたくないのにやらなければダメですか?」、「何が迷惑なのか分かりません」、「伝えられるんだったら伝えてます。」今の私ならそんな質問を聞き返すかもしれない。明確な答えがないだけに大変だと思うが、先生方には分からないことを生徒と一緒に考える姿勢を是非生徒に見せてほしい。分からなくてもいいから。だってまさに生徒は高校生らしく質問をぶつけているのだから。


 マイブームの作家、喜多川泰さんの「スタートライン」という本の中で高校生らしさのヒントが隠れていると思った。高校時代というのは半分大人の世界に首を突っ込んだ時期になるかと思う。それなりに経験を積んできて自分の限界みたいなものをうっすらと認識し、また生き馬の目を抜く大人の世界の厳しさを感じ始める。そして進学するにしろ働くにしろ、もうそれほど遠くない未来に進路の決断を迫られる。人格が形成されていく過程で非常に感受性が高まり、壊れやすい危険性と果てしない可能性が詰まっているのが青春時代だ。この時代に“らしい”というのはどんな生き方のことだろう。一言でいえば「何でもがむしゃらに取り組む」ことだと信じる。それに尽きると思う。経験の浅い自分が感じた限界なんて考えなくていい。思慮が浅くバカな失敗をしてもかまわない、それが許される年代だ。取捨選択を一切せずに、とにかく自分の前に現れる全てのことに全力で取り組む。何が必要で何が不要かなんて誰にも分からない。やれと命令されるから嫌気が差すのではないか。勉強でも行事でも、遊びや趣味など下らないと思うようなことでも仲間と楽しみながら精一杯やってみる。失敗も成功も全ての経験が人生の糧にきっとなってくれる。喜多川さんに触発されて、これが私が今日一つの答えとして捉えた「高校生らしさ」の在り方だ。


 残念ながら私はそういうがむしゃらな高校時代を過ごすことができなかった。ひねくれて、高校生らしい高校生ではぜんぜんなかった。でも今が幸せだと思えるからそれで良かったんだと、今日のところはしておく。ただ自分の心の声だけにはいつも耳を澄ませていた。「本当に自分はこれを求めているのか?」と問うていた。社会に出てしまうとある程度お金を稼ぐ必要に迫られる等、時間的にも制約が強くなってくるケースが多いと思う。無駄話やボーっとする時間がとても大切なのは凄く同意できる部分だが、三年間という短い時間はそれにも増して貴重だ。若いときはなかなかそれが分からないのが現実。魂を燃やして生きて欲しい。ん?少し熱すぎたか……。


 制服だとその朝着る服を決める時間は省けるね。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください