汝-汝

投稿者: | 2020-12-29

 自分の意見を主張することと文句を言うことは違う。単純に前者は言うべきで後者は言うべきではないというのが一般的だろう。そうでありたいと思う。空気を読まずにズバリと真実を述べられれば、相当にかっこいい。事を荒立てるような発言・行動は控えて穏便に事を進めることのみに終始すれば、大局を見失ってしまう。仲間同士馴れ合いにならず、言うべきは嫌われようともしっかり伝え、歩みを進めていければ理想的だと思う。だけどこれがなかなかできない。私は主張せずにいつも文句ばっかり言っている。


 もう一方でみんなが好き勝手に発言して各々の意見を押し通そうとすれば、いわんや収拾がつかなくなるだろう。リーダーシップで一つに集約するのか、調整役があちらこちらに気を配りながら場を収めていくのか、はたまた武力を行使して押さえつけるのか。誰かが何かしら手を打たないと混とんとした状態が続くことになる。「政治力」とはこういったカオスを打破していく能力を表す言葉として使われる。


 私は人に嫌われるのは嫌だ。でも自分の意見も言いたい。でもグループ内がごたつくのはもっと嫌だ。みんな仲良くすればいいのに……。これは全部本音だ。しかし肌の色や民族の違い、歩んできた歴史を踏まえて国際関係を考えた時、お互いの顔色を窺って右往左往しているようでは一向に問題は解決できないだろう。私の本音は至極日本人らしい小さな村社会的な考え方・感じ方だと思う。顔格好、考え方、育った環境などが似たり寄ったりで、相手の考えていることが大方予想できる仲間内での甘え関係から生まれる発想だ。私は自分の意思がなく、ただ「相手が私に対してこうであって欲しいと思っているだろうと私が思う人物像」を演じている。自立できていない。世界では恐らく全く通用しないだろう。


 恩師は人生は戦いだと言った。また敵は本能寺にありともおっしゃった。人生とは「自分の甘えとの果てしない戦い」ということだろうか。未だ答えは判然としていない。私は平和を創る人間の一人でありたい。自分の周りだけではなく、もっと広い範囲での平和を願っている。であるならば早く“村”から抜け出して世界の人々の心に接し交流すべきだ。結果を恐れず世界平和を目指すならば。私がいつも大切にしていることは自分の心の声に耳を澄ませること。頭では分かっていても体が動かないという経験は何度もしてきた。時が満ちた時に私はきっと動く。無意識に自然と。最近はそんなことばかりだ。信じて待つ。祈って待つ。その時を逃さないように目を覚ましていよう。私は嫌われることを避けるより、やはり世界平和にドーンと貢献したい。

 信念があれば、敵を作らないという生き方があってもいいとは思う。

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