いつから“がむしゃら”でいられなくなったのだろう。「これは自分には必要ないからやらない」等とうそぶくように、いつから捻くれてしまったんだろう。取捨選択することがあたかも大人になった証しのように振る舞い始め、カッコつけるようになってしまった。それ以後は転げるように気づかないまま、世間の一般的な様相に同化して行ってしまった。恐らくは私だけでなく大多数の人たちが同じ経過を辿っているように感じる。
高校野球を熱狂的に応援する人たちの存在は広く知られている。熱狂的ではなくても「野球を観るなら高校野球」という人は多いだろう。甲子園の舞台で活躍したり、さらにドラフト会議で指名されるされないくらい注目の存在にまでなれば、周囲がざわつき始めアマチュアの域を超えて色々大人の駆け引きが展開するのだろう。そこまで行ってしまうと私は冷めてしまう。野球に限らずアマチュアスポーツが人気を集める秘密は「純粋さ」に集約されると思う。がむしゃらにプレーする姿が人々の感動を集める。そこには損得勘定が見えにくく、お金の匂いがしない。少なくともプレー中は。勝利を求めてひたむきに頑張る若者の姿に、観る人はかつてのがむしゃらな自分を、無意識のうちに重ねるのではないだろうか。
私は高校野球を2年生の秋に途中で辞めてしまった。小学校4年生から中学校までは本当に一生懸命励んできて、しかし高校に入ってからは自分でがむしゃらさに陰りが見えた。もう一心不乱に集中することは難しくなっていた。だから3年生最後の夏の大会は出場していない。ずう~っと高校野球を観られない時期が続いた。テレビの向こうで泥だらけでプレーしている球児たちを観ると、かつての頑張れなかった情けない自分が露骨に覆いかぶさってくる。もっと頑張ればよかった、ああしていれば、こうしていればと不毛な想像で胸の苦しさを紛らわせた。がむしゃらにできなかった自分を思い出すのがせつなかった。ようやく観られるように回復してきたのはもう40歳近くなってからだったと思う。今は自分の弱さと向き合い始めたからか、あの頃の自分も自分なんだと受け入れられる。失敗した分だけ、そしてその傷が大きく深いほど、私は自分の“味”を獲得できる。優しくなれる。そう考えると野球が私にもたらしてくれたものは、技術から精神的なものに至るまで多岐にわたり果てしなく大きい。
今日行われた女子大学駅伝で1区を1位で走った選手のがむしゃらな走りに心を打たれた。20歳前後の女性が表情を激しく歪めて懸命にタスキを渡していた。自己と戦う毅然とした姿勢に感銘を受け、走ることに限らず自分も見習わねばと気を引き締めた。いくつになっても彼女のように、周りを気にせず定めた目標に真っすぐに立ち向かうべきだ。おじさんがそんなことをしてはみっともないだろうか。恐らくは相当な勇気が必要で、かなり酷くみっともないと思う。でもきっとそこに真のカッコよさへの秘密が潜んでいる。きっと。
プロ野球選手は一生懸命やっていないようにどうして見えてしまうのだろう?