道理・形・場所

投稿者: | 2021-01-13

 母の兄である伯父さんが亡くなった。小さい頃にプールで泳ぎを教えてもらったり、家に遊びに行かせてもらったり、お世話になった。最近はお会いすることはめっきり減ってご無沙汰していた。コロナのこともあり、家族葬で済ませたと言うことだ。香典だけは渡しに上がろうと思う。あの頃が懐かしく思い出され、寂しさがこみ上げてくる。

 偶像崇拝はしないとキリスト教ではなっている。仏像や神棚に手を合わせたりはしない。人間の作ったものに神さまは宿らない。教会には十字架があるが、イエス様が追った重荷に思いを寄せ、また十字架を通して神さまとイエス様に繋がると言う意味であって、十字架そのものを拝むのではない。日本のお墓参りのようにご先祖様がお盆にあの世から戻って来るので、みんなそろってお迎えするということとはかなり違う。キリスト教にも色々矛盾があることも知っている。宗派によってはイエス像やマリア様の像がまつられている教会が存在する。しかしいずれにしても人間が死んだら神様になり、生きている子孫たちを見守り導くという考え方とは甚だ異なる。

 私の家族の中では私だけがキリスト教を信じていて、今後洗礼を受けるかどうかは決めていない。もし私がクリスチャンになることを選んだら、死んだ時の遺骨はどうなるんだろうか。受洗しておいて死んだら仏の道で成仏させてもらうでは道理が通らない。それだけクリスチャンになるということは重い行為なんだ。遺書にでも残して、キリスト教のやり方で葬ってもらうことにしよう。私が死んだら神様だなんて冗談じゃない。ただ親と同じところに永眠するのは悪くないと思う。どんなものなんだろう、遺骨を納める場所はクリスチャンとしてどこでも構わないのだろうか。大切なことを大事にして形には拘りすぎないようにはしたい。

 私の両親は健在で元気にしているが、当然のように衰えは隠せない。いつかはその日が来る。50を過ぎてまだ親離れができないのか、反対に最近ますます両親を愛おしく思う。でもその日はいずれ来るだろう。心の準備なんてできるほど私は大人では無い。その時が来たら思いっきり泣くだけだ。それでいい。伯父の死にあたり、両親の長生きを願う日になった。

 伯父さん、ありがとうございました。

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