「恐れ」の物差し

投稿者: | 2021-02-01

 優しさって、良い響きだな~と思う。「強くなければ優しくなれない」とかって何かで聞いた気がするけど、難しいことじゃなくて、受け止めてくれる優しさって温かい。そう考えると私は自分が弱い人間だとつくづく思う。「弱い」という表現を使ったのは私が私に対する否定や批判を受け止めきれる強さを持たず、ありのままを抱き寄せてくれるような優しさを欲しているから。弱くて自分を支えられないから誰かの優しさに寄りかかりたい。強さに対しての対義語としての「弱い」。この「強い」と「弱い」を考える時、物差しとなる「普通」の観念が必要になる。「普通の人はそんなことは我慢するから、我慢出来ない私は弱い」等というように。「普通はこうだよ」といういわゆる常識的な基準値・標準値。それは当然私も持っている。ところで普通ってなんだろう。

 比べること、そして比べ続けてきた経験が自分の基準値の原型を作っている。簡単に言えば基準は自分だ。自分より優れていると思えばその人は“上”で、“強く”て、“凄い”。憧れをもつこともあるかもしれない。反対に自分より劣っていると思えばそれは“下”で、“弱く”て、“酷い”。差別の温床になりかねない。最低の感情だ。最低だと思いながらもどこかで優越感に浸る自分もいる。そんな時私は最悪だ。比べるからいけない。多様性の時代というではないか。「人それぞれ、みんな違ってみんないいのだ」と多くの人々があちこちで言っている。どうして私は今も人と比べようとしてしまうのだろうか。もっと言えば、私は比べることによって自分を普通の範囲にいる人間だと位置づけ、もしくは範囲からはみ出ていそうな時は咄嗟に取り繕い誤魔化して、身分の安定を図ろうとしている。誰かと一緒じゃ無ければ恐い。仲間はずれは嫌だ。「普通」の背後に隠れているのは「恐れ」。「自立」という言葉からはかけ離れた状態にいるように思う。

 だがしかしだ、優しくて強くて凄い人っているのだろうか。そもそも私が憧れるような完全無比な存在はあり得るのだろうか。「ある時」、あるいは「ある面」ではそういう人はいると思う。もしかしたら私だってある日偶然、優しくて強くて凄いかもしれない。ある人は仕事では酷くても趣味の分野では凄い時もあるかもしれない。またある人は仲間や友人の中では強くても、お連れ合いの前ではダメダメかも。それが実際のところだろう。問題はやはり私の心の中にあると思う。何かを見たり聞いたりして感銘を受けると自分の中にファンタジーを生み出す。それは物語の主人公のように完全無欠でさらにどんどんと非現実的な存在に育っていく。幻想の存在に追いつけるはずが無い。すべては比べることに起因している。

 夢や憧れを持つのはいい。妄想に浸ることだってリラックスするには効果的かもしれない。優しくされた時に「優しい人っていいな~」と思うことを否定なんてしない。優しくされて自分も優しくなりたいと思うのは素晴らしいことだ。その気持ちを大切にしたい。優しさに頼ったっていいし、もし優しさに触れて自分が弱いと思ってしまってもそれでいい。無理はしなくていい。ただそこで誰かと比べて嫉妬する必要は無い。弱いと思ったところから、さぁどうするかだ。弱さを誇れる人間になろうじゃないか。人の弱さを知らない人間が優しくなんてなれないって。それに弱い人間こそが誰かの優しい心を創っているかもしれない。

 どうしようもなく、人肌が恋しい時ってあるよねー。

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