迷い

投稿者: | 2021-02-03

 映画監督になりたいと思った。実は今でもそう思っている。でも正直なところ、「監督」じゃなくてもいいような気がしてきている。志した頃は監督がどういうものか分かっていなかった。やったことがないのだから、今でもそんなに分かっていないのだろう。自分の思い・考え方・ものの見方を、制作する作品を通して多くの人々に知ってもらうことが一番の目的だ。監督という立場になれば、それができると思っていた。

 フランシス・フォード・コッポラ監督のゴッドファーザーPartⅢという映画を観た。だいぶ昔に観たことがある映画ではあったが内容はほとんど覚えていない。主演のアル・パチーノの演技は圧巻だった。人間の持つあらゆる感情が彼によって映し出され、その一つ一つがとても重厚だった。ラストシーンはセリフが無く動きだけの1カットで、欲望の果ての“はかなさ”が見事に表現されていた。監督の演出力もあるのだろうが、役者の演技力が無くてはどんなに上手に演技指導をしても完成度は上がっていかないのではないか。

 この作品の中で中心的な役割を演じた俳優にソフィア・コッポラがいる。監督フランシスの愛娘である。この映画での彼女の演技は酷評されたそうだ。「彼女の演技がこの映画を貶めた」という具合に。父親という強烈なコネクションを利用しての出演に誰かが嫉妬したのかもしれない。当時彼女は18歳。子役が評価されるこの業界で18歳が若いとは言えないかもしれないが、一本の世界的な大作の合否を背負わせるのはちょっと酷だと思う。その厳しい経験が活かされたのか、今年50歳を迎える現在、彼女は映画監督として押しも押されぬ確固たる地位を築いている。彼女は映画監督に留まらず、脚本家として、あるいはファッションデザイナーとしても活躍しているそうだ。エンドロールを見るまで私は彼女がコッポラの娘だとは知らなかった。非常に魅力的な女性で、確かに演技に素人っぽいところは感じたが、私はそれが役にハマっていたように見えた。そして素人っぽいながらも厚い唇は極めて妖艶であった。充分だ。アル・パチーノの罪を背負って死んだ彼女の演技と全ての演出にコッポラの、そして脚本家マリオ・プーゾの「伝えたいこと」が集約されていた。まさにそれは贖罪のシーンだった。

 映画を創るためには「監督」はもちろん肝心要の存在。だが監督一人では何も創れない。様々な役割を担う人がいて、その一人一人が当事者だ。かつて日本に「城の燃え方が気に入らない」といって、一度炎上させたお城のセットを再び建築から作り直させた監督がいたそうだ。そこまでの存在に成り上がれたなら、事実上一人で何でもできることになるのだろう。しかしそれは今はもう現実的ではない。監督ではない立場からでも映画制作に携わる道がある。脚本を書くこともそうだし、撮影技術を駆使することも演技することも、音楽や衣装からのアプローチもある。様々な要素が一本の映画には詰まっている。だから自分が伝えたいことをその映画“一本”丸々で表現出来なくても、その中の一部分で成し遂げることができると思う。拘るべきは誰もがひれ伏す「監督」という地位ではなく、「伝える」という行為を諦めないことにあるのではないか。ん~、自分の中に監督になることへの諦めがあって、無意識にプランBへ作戦変更しているのかなぁ……。かもしれない。いずれにしても映画作りに携わってみたい。

 イタリア人てカッコいいよね。

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