俳句や川柳、短歌などのいわゆる「歌」にどうしても抵抗がある。理由は単純に読んでも意味がよく分からないからだ。解説を聞かないとまるで歯が立たないことさえある。同じ日本語であるはずなのに。その難解さを専門家や好きな人は風流だという。桜を見て美しいと思う気持ちや義理人情、わびさび等の日本文化の赴きには素晴らしいものがあるのは分かっているつもりだが、和歌などの不可解さは受け入れがたい。
毎朝、朝日新聞の天声人語を楽しみに読んでいる。社会に対して風刺的、批判的な内容が多く、勉強になる事が多い。しかし頻度高く、何だかよく分からない俳句のような歌が取り上げられる。全く分からない。残念ながら朝一番からあまりいい気持ちではなくなってしまう。これに関しては勉強して分かるようになろうなどとは微塵も思わない。英語を母国語とする人たちの間でもシェイクスピアなどは同様の“煩わしさ”があるようだ。少なくとも私が読むと英語力への自信が縮んでゆく。どこの国でも自国の古い文化を継承するのは大切なことなのだろうが、この分野に関しては、申し訳ない、私は退場させてもらう。
歳を取った証拠になってしまうのだろうか、昔ほど何にでも好奇心が持てなくなってしまった。好き嫌いがはっきりしてきたし、エネルギーを使いたいものに使いたい。全体的に精神力を含めた持久力・体力が減ってきているのだと思う。仕方がないし、それでいいと思っている。その代わり好きなものには没頭するつもりだ。これまでにやりたくても、必要な技術を習得したり継続することが面倒だから、何かと言い訳を付けて逃げていたことに挑戦したいと思う。思ってもみたことがないものではなく、すぐ足元にあった小さな夢から始めたい。
10代20代の頃は本当に、「オレが真剣にやれば何でもできる」と思っていた。何にでもなれると思っていた。やっと“何でも”は無理だと気づいたのか、挑戦しようと心が向く事柄が絞られてきているように思う。一つの私の、年齢のせいなのか体力の低下のせいか、“限界”が訪れ、ある種の危機感に覆われているようだ。目標を持てる範囲が限定されてきたとも言えるだろう。しかしながら追い詰められたというほど大げさな感覚ではない。返って目標が定まってきて良い気持ちで、モチベーションが上がってきている。嫌われたくないから、何にでも誰にでもいい顔をして生きてきた。人の良さそうなおじさんから頑固じじいに変わっていくのだろうか。そうだとしても、嫌われるようになってしまうとしても、もう好きなようにやっていこうか。私の中で加齢は今のところ悪いものじゃない。もう実際にいくつかの挑戦は始まっている。
季語って季節ずれてない??