生まれ変われるか

投稿者: | 2021-02-10

 キリスト教に本気で向き合おうと志してから4年が過ぎ、毎日バリバリ聖書を読んで猛烈に勉強しているという状態からはほど遠いが、心の中に何かキリスト教的なものが芽生え、育っていることを確かに感じる。それは日々の生活の中で、例えば本を読んでいて引っかかる部分であるとか、映画を観ていて印象に残る場面や制作者の言わんとするところを考える時、キリスト教の影響を自分の中にハッキリと意識することができる。それは無意識のうちに影響を受けていることを、何か新しい感想を持った少し後にいつも確認できるという事実に基づいている。

 例えば少し前、2月3日にも書いた、映画「ゴッドファーザーPartⅢ」を観た後に思ったもう一つの感想は、キリスト教と向き合ったこの4年がなかったら私がこのPartⅢの深みを理解することはできなかったと思う。劇中劇のシーンで、アンディ・ガルシアの長男が主演した体裁のオペラのストーリー内容を、あれだけの情報では恐らく推測もできなかっただろうし、そうなると娘が銃弾に倒れたシーンとそのオペラの内容とのリンクに気づけなかったと予想できる。つまり人間の罪を背負って死んだイエス様と父の罪を背負って死んだ娘のオーバーラップに気づくことはできなかっただろう。だとしたら映画への評価は全く違ったものになっていたはずだ。

 2月7日に書いた、ニーチェの「ツァラトゥストラⅠ」を読んだ時もそうだった。ほとんど全く歯が立たない本の内容の中で、ことイエス様やキリスト教に関しての記述になると、バチっと目が止まった。まるで自分がキリスト教関連ワードを検索しているロボット検索エンジンになったようだった。ニーチェがイエス様を私たちと変わらない一人の人間として捉える観点を持っていることに少し驚いた。「イエスはあまりにも早くに死んだ」と記述している。同時に本当に真理に近づこうとしたら、イエス様をアンタッチャブルな存在に奉り上げ、タブーを作ってしまってはいけないと改めて思い出させられた。とにかく4年前の私ではこの本を読んで引っかかる箇所は皆無だっただろう。恐らく最後までは読み切れなかった。

 三作あるゴッドファーザーシリーズの中で、PartⅠがファンの間でたぶん一番熱い支持を集めていると思う。マーロン・ブランドは相当にシブい。でも私はⅢだ。Ⅱのロバート・デ・ニーロも相当いい。少し前の時代になってしまうが、ハリウッドの映画界を闊歩していた主役たちが目白押しのⅡはあまりに華やかで、ストーリーや演出がどうのこうの言うよりも登場人物を拝めるだけで映画ファンとしてはミーハー的に胸が躍ってしまう。映画とはそういうエンターテイメント性があってしかるべきだと思う。だがしかし、私はⅢだ。4年前の新しいキリスト教との出会いからこれまでで、私はどうやら変わったようだ。「良く」変わったのか「悪く」かは判断できないし、するつもりはない。どういう風に変わったかと聞かれれば、私は「今は気持ちがいい」と答えたい。もっともっと気持ちよくなりたい。

 コロナで聖研ができないとは言え、もっと聖書も読まないと。

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