たくさんの手に育てられて

投稿者: | 2021-02-18

 人の“ため”になりたいと思う。困っている人の助けになりたいと思う。純粋にそう思っている。ではどうしたら助けられるのか。結論から言うと、相当に頑張らなきゃできない。

 手段としては言葉と行動なのだろう。怖がらずに自分から出向いて行って、困っている人たちに出会わなければならない。何の役にも立てない恐怖はあるけれど、黙ったままでも寄り添うことはできる。心を向けることはできる。そしてできることなら「力になる言葉」をかけて差し上げたい。これが難しいんだろうと思う。どんな声かけが正解なのか分からない。例えば、ん~、「イエス様を信じましょう」と言う。それはキリスト者としては(私は受洗していない)伝道するという観点から、良い行いだと言えると思う。煙たがられても根気強く毎日のように通って伝え続ければ、いつか真意が伝わるかもしれない。そうなったら本当に素晴らしいし、もしかしたらそれがするべきことで、まさに助けることになるのかもしれない。しかし現実には恐らく沈んだ心持ちの人たちを前にしてかける言葉としては唐突すぎるのではないか。分からない、もしかしたら少しキリスト教に興味がある人であれば顔を向けてもらえるかもしれないし……、まぁ、トライしてみる前から尻込みしていては何もできない。まずは話を聞いて差し上げることからだと思うが、コミュニケーションの取り方、言葉のかけ方は相当に難しいと予想できる。

 何故「助けたいと思うのか」と自分自身に問うことは最も大切な一つだ。上から目線になってはいまいかと第三者的に自分を見つめることも必要。そもそも自分が救われて、助けられていなければ人を助けるなんてできないかもしれない。自分は救われたのか?どうだろう??何を以て救われたと認識できるのだろう。自分も救われていないけれど、「一緒に救われましょう」という声かけもありかもしれない。だがしかし私はイエス・キリストの死により、私たちが救われたことを信じている。そこに立って生まれ出る言葉にしか、もはや私の真実は宿らない。救われたという根拠はない。私は信じるから救われた。

 もっと学ばなければならない。神さまと人間を結ぶ言葉をもっと知りたい。私はやはり唐突に強引に人を説き伏せるようなやり方は好きじゃない。「神さまを信じなさい」と迫れるまでは、分かりやすいながらも心に残る言葉の数々を繋ぐ必要がある。ある日突然雷に打たれて神に目覚めることもあるかもしれないが、そうことはやはりあまり期待せず、言葉を重ねて地道に他者との信頼関係を築き上げていきたい。それが私の助け方、寄り添い方。この5月から11ヶ月間、週一で2時間、心理カウンセリングの講習を受ける予定だ。勇気と根気と体力・知力、そして何より信心がなければ人を助けることなんてできやしない。もちろん上からではなく下から支えるつもりで。

 ♪理屈じゃないのよ、動機は、はっハー!

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