同じ目線で

投稿者: | 2021-03-05

 ある取引先の会社の受付に、たぶん20代か、30代だとしても前半の女性がいる。可愛らしい方で、伺うといつも明るい笑顔で応対してくれる。話しかけられるとドキドキして、年甲斐もなくキュンとしてしまう。とても素敵な方だ。その人の鼻からはチューブが伸びていて、足元の細長いボンベのようなものに繋がっている。移動する時は、車輪が付いているそのボンベを引きながら歩いている。私はこの女性を本当に素敵な方だと思っていると思うのだが、ふと考えてしまう。「もしこのチューブがなければ、私はこの人にこんなにキュンとするほど惹かれただろうか」。

 小学校5、6年生の頃に、確か転校生だったと思うが、耳の不自由な女の子がいた。話は出来たが、私たちには聞き取りにくい発音でしか喋れなかった。結局彼女とはほとんど話す機会を持てずに卒業し、もう会うことはなかった。中学に入ってから友達のひとりがその子のことで「○○さん、どうしてるかな~」とつぶやいたのを聞いた時、私は「あ、自分はあの子のことを好きだったんだ」と分かった。細身の可愛らしい子だった。

 私は惚れっぽいところがあるので、多くの失恋を経験してきた。でもハンディキャップのある人と出会ったことは他にもあるわけで、やはり惹かれる時は惹かれるだけの何かがその人にあったからキュンとしたんだと思う。しかしやはり考えてしまうのは、「それは“情け”ではないか」ということ。誰かの弱いところを見てしまうと、助けたくなりはしないだろうか。しかも目に見えてハンディを負っている人が身近にいれば、手を差し伸べるのは当然ではないか。それはそうだ、それでいい。私が悩んでいるのは、その時自分の心の中に「かわいそう」という差別がないかということだ。上から目線に成り下がっていないかという恐れだ。もしそういう区別する心が私の中にあるのなら、それは「恋」ではなく「偽善」だと思う。

 もっとも、「ハンディのある人と深い仲になり、土壇場で裏切った」というような、偽善により誰かを傷つけた経験が私にあるのであれば、そこまで悩むのは分かる。けれども残念ながら?それは今までない。だから「悩み」と捉えるのは大げさかもしれないが、あの会社を訪れる度にどうも妙にあの女性に惹かれる理由を探ろうとすると、いつもこの問題に突き当たる。差別したくない差別したくないと思えば思うほど、ドツボにハマっていくような気がする。自分に厳しすぎるだろうか。いや、そうは思えない。またしても目に見える事物に心を奪われすぎている。自分の中のあらゆる差別をなくしたい。その上でまたキュンとする出会いに巡り会えたら、何と素敵なことだろう。まだまだ修行が足りない。自分が変わらなければ、環境も変わってくれはしないだろう。まず自分の中の差別をもっともっと小さくしなければ、いつまで経っても世界は変わらない。

 情けから始まる恋があってもいいとは思う。

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