適性

投稿者: | 2021-03-07

 何度かすでに書いてきたことかもしれないけれど、今の心境を正直に今日も書こう。映画監督になろうと、なりたいと思って、いつも遠くを見ながら青年期を過ごしてきた。「今のダメな自分は仮の姿で、将来には輝く自分が待っている」という妄想に常に“取り憑かれて”生きていた。映画監督になるために日々コツコツと勉強なり、それこそ本を読むなり、本気で頑張っていたなら全く違う話になると思う。それができていたら本当に映画監督になれていたかもしれない。

 もう27、8年位前カナダにいるときに、前にも書いたことがある人、友人の友人である当時はまだ駆け出しの映画監督と、夜中にビールを飲みながら二人で話をする機会があった。彼:「おまえはどうしてカナダにいるんだ?」。私:「映画監督になりたいからです」。彼:「なぜ?」。私:「映画を創って、その中で『自分の考え方・ものの見方、感じ方』を伝えたいんです」。彼:「何を伝えたいんだ?」。私:「私の信じる真実です。」。彼:「真実とは何だ?」。私:「愛です」。彼:「愛って何だ?」。私:「まだ、よく分からないです」。彼:「何をやってるんだ!?分からないなら図書館でもどこでも行って、調べてこい!」。私はそのあと何も返せなかった。真夜中に図書館が開いていなかっただろうことが理由ではない。全く彼の言う通りで、直感的にそういう性質・性格が、飽くなき探求心と言うのか、映画監督には必要な資質なのだろうと感じた。私は自分の知らないことに強い関心を持ち、そんな情熱的に“知ろう”とする努力はしてこなかった。口先だけで中途半端に生きてきた「私の真実」を、このほとんど初めて会ったカナダ人に突きつけられたのだ。絶望し、そして同時にそんな必死な姿、使命に目覚めて他のものに目もくれず邁進するような生き方に、疼くような憧れを感じた。

 結局、映画監督には今のところなれていない。結局、私は本気ではなかったのだろう。あの夜の後もそういった類の努力はしなかった。「飽くなき探求心」が必要だろうことは書いた。加えて映画監督になるために、これも必要なんじゃないかと最近思うことがある。「感受性の豊かさ」だ。私はあまりにも遠くを見過ぎて、足元の日々の小さな出来事に気づくことができなかった。道端に咲く小さな花や激しく木々を揺らす突風や、散歩している誰かの笑顔や、家族のあの一言に、心を反応させられなかった。万物の営みに敏感に思いを巡らせることができる純粋な心、豊かな感受性が求められると思う。

 このように書いていて、もう一つ気づいたことがある。「映画監督」という単語を「素敵な人」か「なりたい自分」という言葉に差し替えて読んでみる。そして自分の過去と未来と、そして今を考える。もう53歳だからこれから映画監督になるのはかなり厳しいが、なれるかどうかは誰にも分からないし、可能性はゼロではないはずだ。でもその目標だけに焦点を絞って努力することは、恐らくもうしないと思う。では「素敵な人」、「なりたい自分」の方はどうだろう。まだまだ“なれる”可能性は十二分にある。私の自分探しの旅は続く。

 あの人、どうしてっかな~?

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