「ポカ~ンとしてる人」と言うか、「のんびり、ゆったりしてる人」と言うか、「時間が穏やかにゆっくり流れている人」と言うか。本人にとっては至って普通の状態なのかもしれないが、私から見るととても“ほんわか”した雰囲気を持つ人に接すると、単純に「いいな~」と羨ましく思ってしまう。どうしてかなと軽く考えてみると、そういう人たちには「欲望が感じられない」、「幸せそうだ」、あるいは「何ごとも“受け入れている”」等という印象を持つことに気づく。人間の「無い物ねだり」の性分から察するに、「自分にはこういう“ゆったりとした”部分が足りていない」と感じているんだと思う。端折って言えば、「欲望がなくなることを欲している」とも捉えられる。それとも最近少し疲れ気味なのか。
私は常々一人の人間の性格を特定するべきではないと思っている。例えば「あの人は人付き合いが嫌いな人だ」と決めつけて、どうせ声を掛けても無視されるだろうと、誘う前から外してしまうのは良くないと思う。と言っても、「べき」であって、なかなか自分でも実践できていない。たいていはみんなの評判に流されて、人を判断してしまっている。「Aさんは優しい人だ」と誰かが評したとする。なるほどAさんは人当たりが良くて、自分よりも他者の事を優先するような慈善的な姿勢が、誰から見ても特徴的な人かもしれない。しかしAさんには“優しくない”部分も必ずあると思う。優しさであろうと忍耐強さであろうと何であろうと、あらゆる性質について、人にはどちらか一方の片寄った要素しか無いと言うことは無いと考えている。割合の問題でしかないと思う。Aさんは例えば、人に対して100回に一度しか“優しくない”ところを出さない人だとする。つまり99%優しい人なわけだ。Bさんが何の情報もなく、Aさんに一度だけ会ったことがあるとする。もし100回の内の“その一度”が巡ってきて、Aさんの体調が悪かったのか、身内に不幸があったのか、もしAさんがたまたまBさんに不遜な態度を取ってしまったら、BさんにはAさんが優しい人との印象は決して残らない。
私の中にもきっと“ゆったりした”部分はある。もしかしたら誰かが私を捕まえて、「あの人はいつもゆったり物事を考える人だ」な~んて、イメージを持ってくれている可能性が無いことはない。所詮イメージでしかない。私がのんびりしているな~と羨ましがっているあの人も、実は相当な野心家だったりして。もしかしたら根っからの役者気質で、表向きはそう装っているだけかもしれない。そんな想像をしていると、また人間が一層面白い存在に変わって迫ってくる。いずれにしても一時の印象で、その人を判断し切ってしまうのは浅はかで危険だし、何よりもその人に本当に失礼だと思う。自戒の念を込めて。
受け手の受け方によってその人の評価は変化する。同じ人が同じ事をしたとしても、国や宗教や時代など環境が変われば評価は変わる。本当はそうであってはならないと思う。真理は一つなのだと信じている。惑わされずに自分の目で耳で、心で感じて、人と人の間で生きていきたい。
いるじゃん!?ほら、いつもニコニコして、いかにも心が広いっぽい人!