尊敬できる人々

投稿者: | 2021-03-09

 知り合いの方が言った。「それで食べていけるかどうかは分からない。稼ぎのことは別として、『○○で生きていこう』と志した時から、その人は○○のプロだ」。つまり「音楽でもスポーツでも哲学でもゲームでも、本気で何かを目指した瞬間、その人はその道のプロフェッショナルである」と言う主張。人と比べればレベルやクオリティーに差があるのは当然だ。でもそれが何だ!?。クオリティーって何だ!?。経歴が長けりゃ偉いの??。価値観は人それぞれ違うし、人から支持されようがされまいが関係ない。我が道を行くのみ。

 プロとか、プロフェッショナルとかという言葉の概念を突き詰めようとする時、上記は面白い考え方だと思う。頑張っている人に「プロ」という称号を与えることで、暗にその人を応援する意図があるようにも感じられる。では、「さすが、プロだねえ~」と発する時はどんな心境の時だろう。「こだわってるね~」、「芸が細かいね~」、「そんなことどうやって思いついたの?」、「深いね~」、etc…。ある程度の才能がその人にはあったんだと思う。しかし人々は積み重ねられた経験や過程の方により感心しているのではないだろうか。一時代前に一世を風靡した「ヲタク」と呼ばれた人たちも、マンガやアニメ、フィギュア、PC関連等に特化したプロフェッショナルという捉え方が出来ると思う。かつては気持ち悪がられるだけだったタイプの人たちが、その専門性・拘り・深い知識を持っていることが広く知られるうちに市民権を得ていった。多くの人々が彼らに感心した証拠だった。やはり「プロ」という言葉は、周りから認められた非凡な人にだけ与えられる、畏敬の念の形かもしれない。

 「神童」や「天才」などの言葉も凄いと感じた時に使うと思うが、これらには不断の努力とか鍛錬などの地味なイメージは伴わない。とてつもない才能があって、一般の人がびっくりするような離れ業を、いとも簡単にサラッとやってのけてしまうような、言わば“宇宙人的”な印象をその人に持った時に使うことが多いように思う。そこに人間味は感じられない。羨ましいとは思えど、「尊敬」はない。プロではない。

 「言葉」とはその意味をしみじみと身体で実感できた時に初めて獲得できる物だと思っている。今「プロ」という言葉が私の物になりつつあるように感じる。こうして考えてきて、『プロとは尊敬に値する人のこと。恐らく元々それなりの才能を授かりつつ、人間離れした不断の努力の積み重ねによって、他者へ伝達できる事物(目に見えない物を含む)を創り続ける人のこと。但し創った事物は人々の感心を誘うものでなければならない。』もしこの私の理解を受け入れてもらえるとしたら、残念ながら知り合いの説は否定される。何かを目指しただけではプロではないということだ。「伝える」とは、自分の気持ちを表すために最適な言葉を、培ってきた自分の語彙から選び、相手へ届ける作業だと思っている。日々こうして頑張ってブログを書いているが、ブロガーとしてプロフェッショナルになるにはまだまだ修行が全然足りない。皮肉にも今、私の説が証明してしまった。さぁ、本気で目指すか!?

 でもまぁ、自分でプロって言うならプロだよね。

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