心のベクトル

投稿者: | 2021-03-19

 天災は忘れた頃にやってくる。東日本大震災から10年が経った。誰も防ぐことができない自然災害。また新型コロナウィルスが昨年から流行りだし、今なお世界中で猛威を振るっている。これも防ぐことは難しかった災いなのだろう。その前もこれからも、何かしらの災害や疫病に苛まれながら、人類は歩みを進めていく。つまり今コロナで大変だけれども、また違う災いが我々に降りかかってくることは覚悟しなければならない。私がそういったことに巻き込まれずに生き延びていられることは、本当に幸運なことだと思う。

 少中高生の自殺が増えているそうだ。昨年2020年は499名で、統計が始まった1980年以降で最多とのこと。コロナの影響は否定できない。「それまで当たり前だった日常が変わってしまったことへの不安」というのは、理由として少なからずあったかと思う。反対に「いつもあるものがある」ことから、人は無意識のうちに大きな安心感をもらっているのだと気づく。
 コロナに関しては、地球温暖化へ突き進んでいるかに見える人類の営み、つまり日常を自ら壊そうとしている人間への、神さまの制裁に思えてならない。「便利さや利益等を追求しすぎてやいませんか」と、「もっと大切なものを忘れてやしませんか」と、警告されている気がするのは私だけだろうか。
 百歩譲って神さまのことは置いておいたとして、現実にコロナで世界中が行き詰まっていることは事実だし、環境破壊は対策が待ったなしの瀬戸際まで来てしまっている。子供でなくても将来に絶望してしまう人が増えるのは、致し方ない。この世界をどう生き抜くか。

 「一日一日を精一杯生きること」は以前にも書いた。これを全うすることは不可欠な大前提として今日は省略する。で、これかなと思うことは、まず「この状況を身体で感じて、自分が何を思うかに耳を澄ませる」こと。何のことはない、またいつかと同じ結論だ。情報はもっと集めて吟味しなくてはいけないし、勉強も読書も足りない。事実をもっとしっかり捉えた上で“自分自身”に聞くという作業が優先されるかと思う。それができたら後はその“声”に従うのみ。

 しかし正直な話、現時点でこれだけコロナで抑圧された生活を強いられていても、私の中にはお灸を据えられた効果が見当たらない。どこか他人事で真の危機感が、ない。もし本当に自分の問題としてコロナや環境問題を考えられていたら、私はもっと調べるなり、自然ともっと身体が動くはずだと思うのだが。聖書研究の時にとことん調べるように。
 頭で分かっていて無理やり動かそうとしても、身体が拒否反応を示す。それがいつもながらの私。そういう自分も全部ひっくるめて受け止め、「自分はどうしたいのか?」と心の声に耳を澄ます。聞こえてくるのは、いや、聞こえてくるような気がするのは、「死にたい」と絶望する人たちの叫び。カウンセリングをする資格を得るための研修が今夜から始まる。

 一日一日だよね。

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