歩いて40分くらいの距離の話。大人の足で40分くらいだと、小学3年か4年生くらいが歩けば1時間くらいになるのだろうか。少年野球を始める直前の事だったと思う。ちょうど野球に興味を持ち始めていて、上級生チームの練習試合を下級生ながら見たいと思い、どなたかの車に乗せてもらってついて行った。私たちの小学校は比較的まちの中心部の学校で敷地面積が狭く、アスファルトの小さなグラウンドしかなかったため、野球の試合となれば必ず遠征試合になる。保護者も含めて知り合いがいたわけでもないのに、どうしてそういう運びになったかは全く覚えていないが、私のどうしても見たいという欲求が、面識のない周りを動かしたとしか考えられない。小学3か4年生なのに。
その日も遠征先での試合で、私は少し興奮気味に充分に堪能し、さぁ帰るぞということになった。試合はもう終わったし、もうそれ以上どなたかに迷惑をかけることが申し訳ないと思ったのと、ほとんど知らない方に「車に乗せてください」と声を上げることが恥ずかしくてできず、よせばいいのに「自分で帰ります」と言ってしまった。自分がどこにいるか全然わからないのに。
時は昭和52年ころ。携帯電話はおろか、公衆電話さえそれほど数がまだ配置されていたわけではなかったと思う。家に電話はあった。黒光りのダイヤルを回すやつ。プッシュフォンが発売されていたかは定かではない。とにかく親に連絡をとる術がない。何よりお金を持っていない。交番に駆け込むことはできたが、それは最後の最後。自力で帰るしかない。小さいくせにプライドだけは高かった。どっちに向かえばいいのか、方向さえも分からないのに。
文字通り右も左も分からなかった。さ迷い歩くとはあのことだと思う。でもどこで身に付いていたのか、いわゆる“根性”だけは備わっていたようだ。気持ちだけはしっかり保っていたように覚えている。くじけなかった。野球を始める前だから、どうやってそういう“粘り”みたいなものが出てきたのか分からない。先天的なものなのか?
そんなに驚くほど遠い場所ではないというのは、何となく分かっていたと思う。車とはいえ、来る途中の車中を眠って過ごしたわけではない。私の家は川幅およそ300mの大きな川からほど近い場所にあったので、あの川にまで出さえすれば、何とか帰れると思った。しかしどっちか分からない。見たことがある景色は皆無だった。何となくの勘を頼りに歩き続けた。けっこう絶望的な状況だったと思うが、不思議と悲壮感は少なかったと思う。悲壮感という感覚すらまだ知らなかった可能性もある。
そして、何故だろう、川に出た。その時の嬉しさは半端ではなかった。しかし出てみて分かったことだが、これが“あの私の川”かどうか分からない。でももう足に疲れがきていて、選択の余地はなく、私にとってその川はあの川でしかなかった。そう信じなければ自分をもう支えきれる状態ではなかったと思う。自分の願うように目の前の現実を捉えた。今考えれば危険すぎてゾッとする。そしてさらにもっと困ったことに、川に出てはみたが、家の方向が右か左かわからない。根拠のない勘で左へ進路を取った。
「お母さん、ただいま~」と言いながら母親と再会した。そこには普段と何も変わらない優しい空間が佇んでいた。ホッとして、膝から崩れ落ちそうだったのを何とか堪えた。何故かその日の出来事を母には語らなかった。道を人に恥ずかしくて聞けなかった“後ろめたさ”があったからかもしれない。この日の冒険を私は自分の胸にだけに留めた。
台所の窓から「ドデカい夕陽」が祝福してくれるように、深い濃いオレンジ色の光で私を照らしてくれていた。達成感に包まれて、少しちょちょ切れながら、自然と笑みがこぼれた。
何時間くらい歩いたんだろう。