スイミングスクールで、私と同じ初心者コースで一緒に習っている方がいる。大柄でスポーツが得意というタイプではないだろうが、いつも一生懸命泳いでいらっしゃる。恐らく年齢は私と同じくらいか少し上か。話していて、とても優しく穏やかな方だ。
その方は、今まで健康維持のためにウォーキングや体操などをやってみたが、あまり続かず、水泳に出会ってようやく一つのことを続けられるようになったそうだ。私と同じく週に2回のコースを受けているが、仕事の都合などで一回スキップすると次のレッスンが体力的に厳しくなるので、なるべく週2をキープしたいと言っていた。
私はその人と普段一緒に泳いでいて、一生懸命だな~くらいで、特段何も感じていなかったが、よく話を聞いてみると、人間ドックや血液検査などで色々数字が“引っかかってしまう”状況だったそうだ。ところが水泳を始めてからは、指摘されていた数字に改善が見られるようになり、医者からも続けるように勧められているとのこと。それが続けるモチベーションに繋がり、泳ぎ自体はあまり上手くならないんだけれど、彼にとってはそんなこと以上に、水泳が生命に関わる大切な活動になりつつあるそうだ。凄いいい話で、何だかとても感動してしまった。
人それぞれに道があって、それぞれに事情がある。「小笠原諸島に行ってイルカと一緒に泳ぎたい」と思って始めた水泳だが、泳ぎが上手くなることだけが目標ではない人たちがそこにいた。そこで私は感心し、知識を広げ、癒され、学びを深めている。何がどう変わるかなんて分からないものだとつくづく思う。
一つ確かなことは、私が行動したということ。思い立ってスイミングスクールに入ったこと。それが無ければこれらのことは、私にはいっさい起きなかった。これからどのくらいこのスイミングスクールに通うかは分からない。しかし確かに今、知らなかった世界、人々の間で私は「感心する」という経験をさせてもらっている。それが私にとって人生を左右するような、大きな変化・成長かどうか何て関係ない。たとえ小さくても確かに生きている証しを感じている。
私は一見「小さい」と思えるような事象について、あまりにも疎かにし過ぎてきたように思う。小さなことの積み重ねの上に今の私がいるのではないか。だいたいどれが小さいか大きいかさえ判断がつかないくせに。
例えば20年前に単身カナダへ渡ったことが、凄くて大きいことなのか。違う。送り出してくれた人々が私のことを心配してくれる気持ちに、心を配れなかったことが愚かだった。例えば仕事に熱中して売上を上げることが、素晴らしくて大きいことなのか。違う。支えてくれる家族の気持ちを顧みない態度が、一人の人間として失格だった。
「思い立って」と書いたが、私は“私が思い立った”のではないと思う。「心の声に耳を澄ますことができた」と言い換えられる。それが「神の声」とまでは、今は言い切れない。しかしそう信じて、いつか言い切れるようになりたいと思う。
人間ドックを予約しなきゃ。