「もし昔に戻れるとしたら、いつの時代に戻りたい?」という恒例の質問がある。「あの失敗の前まで戻って、もう一度やり直したい」とか、「今度こそ勉強していい大学へ入ってやる!」とか、「若いころの体力や美貌を取り戻したい」など、現状に対する不満や後悔が強くて、「あぁあの頃に戻れたらなー」等と妄想するのだと思う。
「今までの人生で、失敗がないか?」と聞かれれば、私は失敗だらけでどれを後悔していいのか分からないくらいある。でも不思議といついつに戻りたいというのは全くない。やっとここまで来られたという思いが強い。いつの時代かに戻って、もう一度同じことを繰り返すのは御免こうむりたい。結構しんどかったという感覚が私の中で支配的だ。
「いつも努力してきた」なんてことはない。「頑張って重ねてきた努力の成果を無かったことにするのが嫌だ」、なんてカッコいいことは全くなく、勉強にしろ仕事にしろ運動にしろ、むしろしっかり努力できない自分に悩んできた。つまり「『こうでありたい』という理想の自分」と「『できない』現実の自分」の間で悩んできた。確かにずう~っと悩んできた。もし“あの頃”に戻ってしまったら、またその時点から悩み直さなければならなくなってしまう。それには耐えられそうにない。
結局、私は真面目なんだと思う。それ自体はいいことなはずだが、残念ながら意志が弱い。覚悟がないというか、何か目標を掲げて頑張っている過程で、怠け心や弱気が顔を出したときに、どうしても楽で無難な方へ流されてしまう。そうなると生真面目なもんだから、そういう不真面目な自分が許せず、もう一度奮い立たせようとするんだけれども、根っこの部分で意志の力が足りないから踏ん張れず、結果、ダメな自分に幻滅してしまう。これが自己嫌悪の悪循環に陥る典型的なケースだ。これの永遠の繰り返し。
ただ、最近変わってきたことが一つある。「できない自分を許せる」ようになったこと。「自分を諦める」とも言い換えられるし、「自分を好きになった」のかもしれない。
「どうせ自分なんかこんなもんだよ」と諦めることは、正直今までできなかった。口では何とでも誤魔化していたが、実際はプライドが許さなかった。もう歳を取ってしまって体力も知力も衰えて、しかし自分を諦めてしまったら最後の砦を開城してしまうような気がして、恐くてできなかったというのが本音だ。
「それでいいのか?、それが本当のお前なのか?、もう自分で自分を苦しめるのはやめていいんだぞ!」と声をかけてもらったんだと思う。そう考えると、ガラスの見栄を張って生きてきた事実に気づくと同時に、そんな安っぽい薄っぺらなプライドを担いで、よくここまでやって来られたなと、少し感心してしまった。何だか自分を愛おしくも感じた。
少し自由になって、さぁどうするかだ。どうせ自分にはできっこなんだと全て諦めて、無理せず無難に生きていくのも一つの方法だと思う。できない自分を許すことができたんだから、悪循環からは逃れられる。けれども目標や願いが生じてくることは、止められないのではないか。“悪”と呼べるかはまだ分からないが、「志して、挫けて、失望して、また新しい目標達成を志す」という循環は続くのだろうと思っている。なぜその目標かと吟味すれば、プライドがいちいち関わってくることを否定はしない。しかし純粋に生きがいを感じる感覚や心の声によって、私にもたらされるという事実も否定できない。背を向けて聞こえないようにするのか、問題はこれから『心の声』と、さぁ、どう向き合っていくかだ。
自分を諦めない「強さ」はあったんだよねー。