聖書

投稿者: | 2021-05-02

 私は一つのことに夢中になると、そればっかりに捕らわれてしまって、なかなか他のことまで気が回らなくなる。それでいて飽きっぽい。とことんまで極める領域まで踏み込む前に、何故かいつも冷めてしまう。何をするにも中途半端で、始末が悪いタイプだと思う。何かにのめり込んで、環境がそれを続けることを許さなかった場合もあるが、たいていの場合は大体のことが分かってしまうと、燃えるような気持ちが影を潜めてしまう。実はいわゆる“ちょっとかじった”程度しか経験していないにも関わらず、分かった風な感じになってしまう。自覚はしていても、残念ながらこれは自分でどうにかできるものではない。

 当然のことながら、自分がずっと飽きないものを探している。熱中できて、そのまま私の心を捉えて放さないもの。それが“もの”なのか、人なのか、はたまた学問なのか、トレーニングなのか、金儲けなのか、ちょっとまだ分からない。ただ大人になって、借金も作ってしまったし、生活をするためにお金を稼ぐ必要があることからは逃れられないし、逃れようとも思っていない。贅沢をする必要はないけれども、生活するため、そして社会的な責任を果たすためにも、お金は必要だと考えている。その前提の上で、熱中できるものを探している。

 それで、私が今まで学んできた現時点までの結論を言うと、上記のこんな世俗的な考えでは到底「信仰」の境地へは至れない。突然に「信仰」という重い言葉を使ってしまい、混乱させてたくはないんだけれど、「信仰を持つ」ということに、私は強い恐れと関心を寄せている。それが何かを語ることができる力は備わっていないし、正直、現時点では得体が知れない。信仰を持つために夢中になっていると言うには、やっている行動も精神的にも、ほど遠い状況だ。だが私の心を惹きつける強い力を感じている。そちらの方向に、私の言葉で言えば、我を忘れて夢中になれるものがあるような気がしている。
 それは『聖書』の言葉に極めて強く惹きつけられることに紐付いている。聖書の中に答えがあると信じている。というか実際は、聖書の言葉から刺激を受け、気づき、追体験していくことで自分の経験として蓄え、それを何度も壊し、また積み重ねていくことで自分の言葉にしていくのだと思っている。だとすると聖書の中にあるのは、答えではなくヒントと言えるかもしれない。

 「それなら、聖書に夢中になればいいではないか!?」という声がする。言い訳をまたする。聖書は、私には難解すぎる。聖書を一人で読むには、私には力がなさ過ぎる。心にグサッと刺さり込む言葉がある。それはそうだ、それがなくてはこれほど心が傾かない。しかし他の本のように通読しようとすると、何を言おうとしているのか分からない部分があまりにも多すぎて、苦しいのだ。「ちゃんと読みたい。正しく読みたい。」という、切実であり、かつ型にはまった律法学者的な発想が邪魔をするのか、いい加減に飛ばして読もうとする自分が許せないのだ。一言一句逃したくないという、諦められない独占欲のようなものが、反対に、いつも枕元に置いている聖書と私の距離を遠ざける。
 今は聖書を正しく読むために必要な知識も経験も、何もかもが足りないような気がしている。聖書に触れる度に、そんな嫌悪感に陥る。だからというわけではないのだが、読める本、読みたい本を今はたくさん読んで、興味がある様々な訓練を積んで、「聖書に近づきたい」というような感じだ。

 いろいろ諦めて、捨てられるか。

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