Different Opinions

投稿者: | 2021-05-11

 結局自分の行く先を決めるのは自分であるわけなのだが、様々な人の意見を聞くとか、過去の出来事から学ぶとか、そういうことは大事だと思う。自分だけの狭い範囲での経験や考えのみで行動の仕方を決めていくのは、私は賢明な方法だとは思えない。賢明である必要がないと言われればそれまでだが、色々吟味することは、私は意味があるように思う。その上で、最後は自分が決めればいい。

 「セカンドオピニオンを聞く」という言葉をよく耳にするようになった。簡単に言えば、「他の医者にも診てもらえ」ということだと思う。一つの病気について、医師によっては見解が異なる場合があるから、そうなれば治療法や処方箋なども異なってくる。「最適な治療を見つけ出すために、違う角度からの複数の意見を入手し、どうするか吟味するべき」という考え方だと思う。
 何か習い事や修行等をするときも、時には違う教師から教わってみることは、非常に有意義ではないだろうか。本物を求めるなら、むしろ必要なプロセスと言えるかもしれない。正しいと信じていたやり方が、間違いだったと判明する場合もあるだろうが、より確固な自信に繋がることの方が多いかと思う。いずれにしても多少の比較検討でそれまでの積み重ねが崩れるようでは、本物には程遠いものだったということだ。試してみるべき。

 なかなか答えが見つからない人生の中で、それでも本物に、正解に、近づきたいと思う。近づく努力はしていきたいと思う。それをやり抜くには、やはり一人では難しいと考えている。恐らく答えは人それぞれに違っていて、近づく方法も一人ひとりに備えられているように感じる。だから、やはり最後は自分で判断していかなければならないだろうし、それを大前提として、答えを導き出すために、いかに情報・材料を集めるかは非常に重要になってくると思う。それは先述した他者の意見であり、歴史事実や知恵であり、そして培ってきた自分の経験もその一つだと思う。これらを使って自分の考えを揺さぶる、それが吟味することだ。

 これを永遠に続けることから逃げてはいけないと思っている。もっとも自然とそうなるように癖がついてしまった。決して楽な作業ではない。非常に根気とエネルギーがいるし、自分の愚かさ、力の無さを思い知らされる結末が常に私を待ち受けている。それでもその時点での答えらしきものが降りてきた時、心地よい涼風が身体を吹き抜ける。考えることを止めてはいけないと思うし、止めたくない。
 吟味して吟味して、思いとは裏腹に行くべき先が見えなくなる。特に最近はそういう傾向が強い。ところが変わってきたのは、そこで多少諦められるようになってきた。神さまに助けを求められるようになった。確かに決めるのは私だ。しかし決めさせられているというか、導かれているというか、御心を賜ったというか、大いなる力が働いているように感じている。このまま吟味していこうと思う。心からの祈りとともに。

 「あの人は本物だ!」なんて、いつか言われてみたいな~

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