どうも自分で自分に対して壁を作ってしまう傾向にある。よく言えば「自分に厳しい」とも言えるのだろうか。これは「こうでなければいけない」とか「こうであるべきだ」とか、親からの躾・教育が影響しているのか、私の無意識に浮かんでくる考えの中には「縛り」が多いように感じる。文字通り“縛られている”おかげで自由になれない気がしている。
これが自分だけに向けての厳しさであるなら、“カッコいい”のかもしれないが、実は他人にも当てはめてしまっている場合が多い。ここが問題だ。
例えば「クリスチャン」について。クリスチャンとはとても「崇高な存在」で、私にはまだ「なる資格が備わっていないもの」、のように感じている。ところが実際はどうだろう。真に神さまへの信仰に生きているクリスチャンは、教会の中にどれくらいいらっしゃるのだろうか。ただ洗礼を受けたという事実のみをもってクリスチャンとするならば、それは全員そういうことになる。でもそれって意味があるのだろうか、と私は思ってしまう。教会に行けば教会員の方々が神さまへの愛を隠すことなく表現する姿勢を示し続けるとか、何かこう、感化されるような、心が燃えるような経験ができるのではないかと期待してしまうのだが、未だかつてそういうことはない。それよりも礼拝の後の食事の準備が大変だとか、バザーの段取りをしなければ間に合わないとか、仕事だと割り切って聖歌隊で歌っているとか……。
内部に入って実際に色々お手伝いしてみないと大人数をまとめる大変さは見えてこない。外野から野次るのは簡単だ。一人一人に違った信仰の仕方があっていいのだろうし、もしかしたら神さまもそれで良いとされているのかもしれない。私が「あの人の信仰はダメ、この人はOK」などと判断できるはずがない。しかしどうしても「世俗的な忙しさに紛れて、祈りを捧げることを二の次三の次にしているようでは、ダメなんじゃないか」という頑固な縛りが私のこめかみを締め付ける。
余計なお世話なんだろうと思う。人には人の信仰の形があって、私は自分の道を行けば良い。どうして人のことがそんなに気になるのだろうか。教会とは「こういう場所であって欲しい」という願望が強すぎるのだろうか。そこに行けば自分が癒やされ、救われ、安らぎに包まれる「楽園」のような場所であって欲しいと願っている。非常に他者に依存した形としての楽園で、楽園が本当にあるのならそれは偽物だと思う。誰かが与えてくれるものではないと分かっているつもりなのだが、どうしても求めてしまう。何故だろう。
神さまに甘えすぎなのかなと思う。また私の悪い“甘さ”が出ていると思う。神さまは私がどこにいてもいつも共にいてくださって、私を支えてくださる。でも甘えるだけではダメだ。結局「教会が嫌だ、本物のクリスチャンがいない」等と難癖をつけて、受洗する勇気がないことを、これから後生神さまを信じていく覚悟ができていないことを隠し、言い訳をしているだけだ。一番肝心のところで嘘をついてしまっている。これではダメだ。ここを逃げていては次の一歩が確かなものにならない。
毎日のように偉そうなことを書いていても、根本がこれじゃぁダメだ。