裸の王様

投稿者: | 2021-06-12

 結局「何が正しいか」なんて分からない。決められない。「今自分が考える正しいこと」を思うことはできるけれども、彼や彼女やあなたにも共通して「正しい」ことは分からない。「正しい」に限らず、「人間に共通して」という条件を前提とした場合、結局は何も定義できないと思う。「常識」とか「普通」とかに代表される、あたかも人類共通の真理のように謳われる内容は、一人一人異なると考える必要があると思う。少なくともそういった事実を考慮して考えないと本当の真理には近づけないのではないか。

 私が思ってもみない感情や感覚を持っている人たちがいる。まるで別の世界の話のように。しかし彼らは私と同じ世界に住んでいて決して架空の存在ではなく、私の追体験を許さない理解不能な人間として敢然と立ちふさがっている。私にとっては脅威の存在だ。
 思い返してみるとそういった人たちを今まで無視してきたように思う。いることは知りながら視界から消し去っていたような感覚。消し方は差別的に見下したり、自分とは住む世界が違うと心理的に突き放したり。自然と抱いていた嫌悪感の赴くままにその人たちを葬り去っていた。しかしそういう考え方・感じ方は他者に依存した考え方なのではないかと最近は思う。この例で言えば、理解不能な人たちに向かって「どうして私の常識の範囲の中で、行動してくれないんだ。考えたり思ったりしてくれないんだ。」と甘えているようなものなのではないか。私が思うように他者を従わせようとしているのではないかと思う。自分だけの小さな世界の中で虚勢を張り続ける幼い暴君のように。

 何が正しいかと考えようとした場合、私の嫌いな「比較」をしなければならないだろう。過去に起こった事例との比較や、人種や文化を超越した様々な意見との考察・比較、ディベートや話し合いも繰り返し必要かもしれない。それは常に次の瞬間に全く新しい画期的な意見・考えが生まれる可能性を孕んでいるわけで、確定はできないのが原理なのではないか。すなわち「『何が正しいかは確定できない』ということが正しい」と言えるのかと思う。
 とは言っても何が正しいかを判断していかなければ、個人的にも集団的にも前へ進めない。その時々において最善を考え、やるべきことを実行していく。時には間違いだと分かっていてもやらなければならない場合があり、できればそういうことが起こらないようにと願いつつも、何とか折り合いをつけて乗り越えていく。こうすれば良かったああすれば良かったと後悔しながら、変わらず時は流れていく。人生とはそういうものかなと思っている。

 知らないことを知ることの難しさを痛感する。少し油断をするとすぐに全てを悟ったように、まるで自分が全知全能のように考え振舞ってしまう。昔から間違わないと覚えられない質だった。負けず嫌いなのか、悔しい思いをしないと身に染みない。やっかいで、だからなのか負った傷がたくさんある。傷の分だけ豊かになれると信じよう。

 いいところをいつも探せる人になりたい

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