ある後悔

投稿者: | 2021-07-25

 「自分の思い通りにしたい」という欲求は誰しもが持っているんだろうと思う。私は幼い頃よく妹と弟をいじめた。私の思い通りに動かない、言うことを聞かない彼らを暴力で鎮圧していた。もしくは母親を奪われる嫉妬から報復に出ることも多々あったんだと思う。そのたびに父親から蹴られたり、大目玉を喰らったりしていた。妹と弟はさぞかし私のことが恐かったことと思う。酷い兄だった。あの頃ほど粗野ではないにしても、そういう要素がまだ私の中に存在していることを感じている。人間なかなか変われないものだと思う。
 そんな私も物心ついて、わきまえるようには成長していった。無闇やたらと暴力に訴えるのではなく妹たちの状況も考慮できるようになっていく。相手の立場になって考えるという行為が自然と身に付いてくる。それでも彼らにとって私は怒らせてはいけない恐い兄だったと思う。今でもそうなのかもしれないが。

 「自分の思い通りにはいかない」と気づいたのはいつの頃だっただろうか。中学の時に、ドラマ「3年B組金八先生」の中で「世界はおまえ中心に回っているんじゃない!」というセリフがあったのをよく覚えている。そして人を自分の言いなりにさせようとすることの愚かさに少しずつ気づいていく。一人一人に事情や考えがあって、尊重し合うことがなければ平和は訪れないと信じるようになっていく。それは個人レベルでも複合体レベルでも国家レベルでも同じだと思う。違いを認め合ったその上で意見交換は大いにするべき。対話がなければ互いの溝は埋まらないんじゃないかと思う。

 これからは私の個人的な意見を書く。対話や議論は公理と事実に基づかなければならない。そして自分の意見がもしかしたら間違っているかもしれないという戒めを心に留めておかなければならない。怒りや悲しみなどの感情、あるいは支配欲などの欲望があるから意見を持つわけで、それはあって当然のものだと思うが、感情に任せて事実を捻じ曲げたり、都合のいいまやかしの情報を信じたりしてしまっては議論にならないと思う。あくまでも事実に沿って冷静に説明をし、自分の意見を主張するべきだ。感情が高まり過ぎると周りの状況が見えなくなったり、相対的に物事を考慮できなくなったりすることは、周知の事実なのではないだろうか。自戒の念も込めて、自分の意見が万人に通ずる真理とは限らない。

 歳を取って、ついつい理屈っぽく、説教臭くなっていく自分を自覚する。ともすると頭の中身がカチコチに硬くなって、自分の思ったことが全て正しいと思ってしまうことが起こると思う。あたかも神にでもなったかのように。そうなってしまってはもう引退だなと思う。「もうすでにそうなっちゃってるよ~」という声が聞こえてきそうだ。
 先に書いた対話や議論についての考えも、私の一つの意見にすぎない。これについても正否の検証を常にするべきであって、そこに縛られてはいけない。世の中には自分が知らないことばかりで、どこまでも謙虚に生きるべきだと思う。言葉は暴力に等しい力を持つ場合がある。使い方を間違えると、新しい暴力を生むきっかけになり得ることも覚えておきたい。

 妹と弟へ、本当にすまなかった

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