何となく

投稿者: | 2021-07-31

 最近は何だか少しだけ以前より心が健やかな感じがしている。どれくらい前と比べてかと訊かれれば明確には答えられないが、ここ数カ月くらいだろうか。何となく未来に希望が薄っすらと持てるような気がしている。
 何故だろうかと考えた。特に何かが変化したわけではない。転職したわけではないし、習い事など新しいことを始めたわけではないし、プライベートで何かおめでたいようなことがあった訳でもない。仕事に関しては反対に苦しい状況が続いていて、行き先には未だ暗雲がただよっている。さらにコロナもあって、いろいろ周りを見渡してみると喜ばしい状況からは程遠い状態であるのにも関わらず、これから何となく良いことが起こりそうな予感がする。何故だろう。

 書くのを一旦止めて今改めて考えてみても、やっぱりこのブログしか理由が考えられない。ブログを書くことが私を支えてくれているということは以前にも書いた。けれどもその効果はどうも表面的なものに限らないような気がしてきた。この投稿が248件目になるはずだが、確かにこれだけ投稿数があるという事実は自信の育成に繋がる。内容は私の思い込みの激しい偏った意見のものもあろうが、他の仕事をしながら簡単に書ける文章量ではないと思う。しかし心の中で「どうだ、これだけ書いたんだぞ!凄いだろ!!」という感覚にならないのだ。こんなにいい加減で一つのことが続けられない三日坊主の私が、こんなに連続して書けるはずはないというのが本当に率直な気持ちだ。私が書いているのは間違いないのだが。

 「一日一日を誠実に生きる」生き方をしたいと思ったときに、私のとりあえずの答えはこのブログを書くことで、まさに一日一日頑張った成果がここにある。それが正解かどうかは分からない。でも私らしい「できること」をやろうと考え、環境的・経済的・体力的なことを鑑みた時にこのブログに行き着いた。そしてそれはずっと「やりたいこと」でもあった。
 苦しいと言えば苦しい。ヘタをしたら眠っている間もネタを考えている。ふと思い立ったネタをメモしておくが、改めてそのメモを見てもピンと来ず、焦って他のネタを探し求める繰り返しだ。“夢のお告げ”は当てにならない場合が多い。

 過去の出来事を思い出して書こうと思うと、昔の仲間が必ず必ず助けてくれる。良い思い出ばかりではないのは当然だ。でも大嫌いだったアイツも、フラれた相手も、酷いことをしてしまったあの人も、必ず私を助けてくれる。彼らは私がどれだけ幸せな人生を歩んできたかを改めて教えてくれる。思い返せば、人の気持ちなど、その時は気づくことができなかったことばかりのように思う。いくら思い出しても分からないことばかりなのかもしれない。自分の無力さ、至らなさを思い知らされる場合もたくさんあって、辛いこともある。けれどももう少し書き続けてみたいと思う。
 書くために思い出したり考えたりすることは、自分の経験を理解・整理することに他ならないし、繋がって現在の私との結びつきを示してくれることがある。「そういうことだったのか!」と霧が晴れるようにスッキリと腑に落ちることはよくある。私の経験は私が使える世界に唯一の教材であり、いつの間にか毎日向き合うことになった私は、そこに希望が見えているのかもしれない。

 決して一人で書けているわけではない。

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