Gift

投稿者: | 2021-08-08

 先日観た映画の中で、ある老人が自分の孫に「歳を取ることは『ギフト』だ」と言っている場面があった。日本語で言えばギフトを贈り物とか賜物とか、あるいは才能と訳されることもある。いずれにしろ「与えられた良いもの」という意味に私は捉えた。その老人は実際に歳を取ってみるまでは、そんな風に考えたことはなかったとも言っていた。時間の流れに従い、人の思いは移り変わっていくものであろう。やりたいことや目標なども、時が経つにつれ変化していくことが自然と言えるのかもしれない。

 野球少年だった頃の私の夢は、目の前の試合に勝つことだったと思う。出場した大会で勝利を重ね優勝すること。その先のことは考えていなかったように思う。現実に甲子園に出たい等という、そういう遠い大それたことを夢見るまでのレベルではなかったようだ。しかし私には私なりのレベルでの精一杯の目標があり、努力していた。本心からやりたいことであり、願いであった。誰もそれを責めることはできないと思う。
 大きくなっていくにつれ、例えば学校を卒業し次のステージに向かう時に、新しい目標や夢を探す。引き続き野球を目標とするなら、野球ができる環境にあれば続ければいいし、別の何かを探すこともある。そういうことを繰り返し、いつの間にか社会という荒波へ放り出される。その時までに自分の目標ややりたいことが定まっていれば、非常に幸せというかラッキーだ。思う存分やりたいことをやればいい。しかし昔は夢中で何かに熱中できていた人たちが、置かれた環境の移り変わりに対応し切れず、現実には何を目標にしていいか分からないまま社会に出ていかされる場合が多いのかなと思う。消去法というか、妥協というか、仕方がないからこの辺の職につくというのが多いパターンかなと思う。

 東京オリンピック大会を観ていて、目標に純粋に向かう選手たちに美しさを感じる。選手たちは己の全てをかけて勝負するのだろうと思う。金とか銀とか予選落ちとか結果が色いろ出てしまうところが残酷だが、反対にそれがあるからこそ頑張れる理由にもなっている。練習の苦しさや重圧の大きさは、一般人には窺い知ることを許さないほど厳しいのだろう。それらを乗り越えて自分のやりたいことをやり抜いてきた選手は本当に尊敬に値するし、また幸せでもあると思う。
 そして彼ら選手にも当然これから次のステージが待っている。対応していかなければならない。続けられる環境があれば続ければいいし、別の何かを探すこともある。これだけ頑張った選手たちだから、いわゆる「燃え尽き症候群」に悩まされることも充分考えられ、新たな違う種類の苦労を背負うことになる人がいるかもしれない。でも人生は続いていく。与えられたギフトを誇りに、妥協せず、また頑張って欲しい。

 コロナ禍において、今回の東京オリンピックの開催に反対する多くの意見があった。ある人は「人類が今やらなければいけないことは、集まってスポーツすることではない」と言った。そうかもしれないと思う。しかし私は今回の開催の是非について明確な意見を持っていない。分からない。ただ一つだけ確かなことは、私が大会を通してテレビを観ながら何度も何度も感動して泣いていたこと。選手たちの挑む姿と試合を終えた後のインタビューに何度も心が動かされたこと。多くの選手たちがインタビューで言っていたように、大会を開催するために尽力してくださった方々に感謝したい。

 ちゃんとした形で、もう一度日本で開催を!

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