真面目

投稿者: | 2021-08-09

 結局は「真面目」じゃないとダメなのかと思う。真面目に仕事や勉強をしないと他者から認めてもらえる、受け入れてもらえる機会が激減するのが、私たちが生きる世の中かなと思う。我慢した者が許容される権利を得るような、そんな社会なのかと思う。そう考えると、人は本来、真面目ではない生き物でもあるのかもしれない。
 真面目な人々はたくさんいると思う。人生それぞれ色いろあるけれど、我慢して自分のために、家族のために、そして他者のために努力できる人たちは、多分マジョリティーだと思う。だから我々はほぼ安全な社会の中で暮らすことができる。

 「真面目」とは何だろう。真剣に、誤魔化さずに、逃げずに、集中して、などの言葉と置き換えられるケースがあると思う。これらを様々な場面で実行するのは、やはり大変だ。精神的にキツい。そういった場面から逃げて身を隠していた方が、よっぽど楽に過ごせるだろう。でも逃げ続けていたとしても、大抵の人にはどこかで何かに「真面目に」取り組まなければいけない場面が必ず訪れる。節目というか、進学、就職、仕事、結婚、子育て等々において、個人差はあるだろうが「真面目に」取り組まなければならなく、逃げきれないことはいくつかあるはずだ。逃げがちの人生を歩んできた人も、恐らくそのことには気づいている。久しぶりに会った中学や高校の時の同級生と会って、「随分大人になったな」と感じるとき、いくつかの節目を乗り越えて来たんだろうなと思う。
 「真面目“過ぎる”」人たちも大変だ。真剣に取り組み“過ぎる”ために自分を追い詰め、逃げ場を失い、心の闇に落ちていくような感じの人たちがいる。極端な痩せ方をしたり、人前に出られなくなったりする。精神病の域に入ってしまえば医師にもう任せるしかないが、孤独感を感じさせないように、誰かが寄り添う必要があるかと思う。

 こうして書いてきてみると、本来人間は「真面目な生き物」なのではないかという考えが頭に浮かんだ。現実の世界に多様な考え・性質の人々が存在するわけで、「本来」などということを考える必要はないのかもしれないが、冒頭の記述と正反対の考えなので記してみたい。
 あえて乱暴に書く。真面目に生きることが正しいと人間は分かっている。そして人間は真面目に生きたいとどこかでちゃんと思っている。そういう願いを持ちながらも、楽な方への誘惑に心乱され、怠惰な気持ちに負け、本来の道からそれていってしまう。我慢とは自分の中の悪魔の囁きから逃れること。人生とはその戦いかもしれない。

 「真面目な人だね」と言われると、何か「つまらない人だね」と言われているような気がして面白くなかった時代が長かった。今言われてもそうでもないので、そういう意味ではこの歳にして一皮むけたのかなと思う。自分で思うに、私は真面目な人間の部類だと思う。もし本来人間は真面目な生き物であるとするならば、「あなたの僕とさせてください」と祈る「祈り」は余計なものを捨てて「本来を取り戻す」ための行為に一つなるのかもしれない。

 ぐぅ~、今日は苦しんだ

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