Mirror

投稿者: | 2021-08-31

 今おかれている環境や状況に感謝することがなかなかできない。朝起きて太陽が昇っていてご飯がいただけて顔を洗うことができてという、この当たり前の生活を営むことができる幸せに普段はなかなか気づくことができない。それは私だけに限らず、人間なんてそんなものだろうと思う。恐らく失われて初めてその有り難さに気づく。私は最近では視力が急に落ちてきたようで、聖書が読めなくて困っていた。老眼鏡をかけて小さな文字がよく読めたときの喜びは驚くほどに大きく、シンプルに「目が見えるってありがたいな~」と感謝の思いでいっぱいになった。

 具合が悪くなって初めて健康の有り難さを感じる。普段から注意して体調管理をしておけば良いのに、分かっていてもそれができない。ついつい食べ過ぎ飲み過ぎ、仕事のし過ぎ、遊び過ぎ、心配し過ぎ、だらけ過ぎ、我慢し過ぎ等々、何かしらの無理をし過ぎてしまい健康を害してしまう。取り返しがつかなくなる前に対処できればまだいいが、疾患を引き起こしてしまってはシャレにならない。もっと普段の生活に、健康な身体に感謝できれば、そういう心配も少なくなっていくと思うのだが。贅沢な話だ。自戒の念を込めて。

 明日もし右腕が切り落とされてしまったら、私はどうなってしまうだろう。間違いなく「絶望」して、ん~、自死も含め錯乱して何をしでかすか分からない。
 最近テレビを観ていると、手や足がない人や目が見えない人たちが、義足や車イスや伴走者を伴って、走ったり球を追いかけたり柔道したり、色んなことをしている。素直に「凄いな~」と思う。どれだけの努力が必要で、彼らがどれだけの困難を乗り越えてここまで来たのかは想像もつかない。もし自分があの立場に立ったらと仮定してみても、画すら浮かんで来ない。水泳の人たちなんて、ムチャクチャ早いタイムを叩き出している。ちょっと考えられない。
 ハンディキャップを負っていることが彼らの強さが引き出されている理由の一つだと思う。その強さに憧れる一方で、しかし私はやはり自分が五体満足でいられてよかったと思うことを禁じ得ない。どこかで彼らのことを「かわいそう」と思ってしまっている。それは紛れもない「差別」だ。私が不自由だろうと思っている彼らの状況は、彼らにとっては日常であり、感謝すべき神様からの恵みのはずだ。それを頭では分かっていながらも、心の奥では彼らを差別している。自分が「偽物」だと痛感する。パラアスリートの勇姿を目の当たりにして、私は自分の醜さと愚かさを突きつけられる毎日だ。だから実はあんまりずっとは観ていられない。

 高校時代から障がい者の施設などへボランティアで行かされていた。その頃から彼らは私にとって、感動を与えてくれる人たちであると同時に、ひた隠しにしている差別心という「醜さ」を私の心の底からつかみ出してしまう存在でもあったようだ。こうしてここまで書いてきたら、そんなように思った。そうか、そうなんだ。
 誰かが言った。「『助けて下さい』とちゃんと人に頼れるようになることが『自立』である」。いつの日か彼らの「助けて下さい」に真心から手を差し伸べられる人間になりたい。神さま、助けて下さい。

 そうか、そうなのかもしれない

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください