キレイごと

投稿者: | 2021-09-05

 50数年生きてきて、相当色いろ失敗を重ねてきた。面の皮も厚くなってきたことだし、もうそろそろ失敗することに慣れて、失敗を恐がらずに生きていっても良さそうなものだけれど、なかなか慣れるものではないようだ。反対にもう失敗しないように恥をかかないように、積極的に行動すること自体を控える傾向が見られる。悔しくもあり悲しくもあり、でも仕方がないのかなと思う。
 失敗せずに恥をかかずに、自分だけが安定して良ければそれでいいのだろうか。「それじゃぁ、ダメだよね」ということだと思う。みんなで幸せになりたいと思う。みんなで幸せになるための方法を、親の教えから、学校教育の現場で、友人や他者との関係の中で、社会の中で揉まれながら、本を読んで、学ぶんだと思う。それが達成できるかどうかは分からない。けれどもそこを目指して頑張るのが「人生」かなと思う。これをキレイごとや夢物語で済ませてはいけない。そろそろ本気で取り組まないと間に合わないような気がする。

 やはり自分のことを、安定を、まず考えてしまう。悪いことだとは思っていない。そこが危ういようだと、他のことを優先にすることはちょっと難しいと思う。これが本音だ。経済的な基盤や生活する環境がある程度整っていないと、他人の事を考えるエネルギーが削られてしまう。そこは最低限しっかり守っていきたい。「その上で」という条件付きで他者のために貢献したいと思う。

 「合成の誤謬(ごびゅう)」という言葉を学ぶ機会を得た。「ある人がお金を貯めようと思って出ていくお金を節約するとする。その人にとっては持ち金が増えていいかもしれないが、みんながそれをやってしまったら世の中にお金が回らなくなり、国民所得が減り、社会状況が悪化する」ということだそうだ。それだけ現代では人・物・金が複雑に絡み合って世界中が繋がっていることを表している。
 この言葉は経済の世界の言葉だが、私は精神的な世界でも通る話なのではないかと直感的に思った。すなわち「『自分さえ良ければいい』と考えて行動することは、回り巡って『自分の為にはならない』」と理解する。言い換えると、「他者のために何かすることは、結局自分のためにすることになる」ということになりそうだ。

 この禅問答のような理屈は特に目新しい考えではない。誰もが聞いたことがあるフレーズで、恐らく普通は“偽善者の戯言”くらいに捉えられ、適当に受け流されて終わってしまっていると思う。「そんなキレイごとではこの厳しい世の中を渡っていけやしないよ」と嘲笑されているのが聞こえて来そうだ。でもそう言いつつも、私は多くの人々はそれが「正しい」と気づいているのだと信じている。私もその一人だ。それぞれ自分のことで精いっぱいでできないけれど、できたらいいな~と思っていると思う。他人を信用しすぎだろうか?
 そして「正しい」と信じて、すでにその道を本気で歩んでいる人たちがいる。「人の役に立ちたい」と本気で取り組んでいる人たちがいる。でも恐らく彼らは「回り巡って自分のところに返ってくるから」等と計算してやっているわけではないだろう。私もそういう人たちの仲間に入りたい。もう少し頑張ると自ずと道が開かれるような予感がしている。

 本気になるのも、勇気がいるね

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください