感動=学び

投稿者: | 2021-09-12

 ある講演会に参加してきた。講演後の質疑応答を交えて約2時間の催し物だった。講演の中で一冊の本が紹介され、これは偶然にも私が以前に読んだことがある本で、内容が飛び切り難しく自分の中に落とし込み切れずにいた本だった。それをこの講演者はよく理解されていて簡潔に我々に説明し、まぁ見事だった。ああいう風に読み込めれば、それは勉強になる。大したもんだ。
 講演全体を通して、この方は「読み方が違う」というか、一つの刺激に対してきちっと受け入れて対応できているようなイメージを受けた。読書量が桁外れに多いのだろうし、学び方を心得ていらっしゃるというか、掴み取るポイントと掴み方が鍛えられているのだろうと感じた。「優れているな」という印象より、「勉強しているな」という感じ。そもそも私なんかの勉強レベルでこの方に対して何かを言うこと自体、甚だ僭越ではあるが。とても刺激を受けた素晴らしい講演会だった。

 「魂が揺さぶられる」ということがあると思う。特に有名な方でなくても、例えば一般の高校生の話でも、心が動かされることがある。聴いていて時には目が潤んだり、励まされたり、未来に希望が灯ったりすることがある。どうしてそういった感動的な話として受け止めることができるのかなと考えると、大抵そういう時は、話し手が自分自身の経験を語ってくれた時だと気付く。厳しかった経験を吐露してくれた時。少なくとも私はそういう「辛かったけど、そこから頑張った話」に弱い。

 恐らく感動できる理由は、「自分が追体験できる話だから」だと思う。もちろん私の経験と想像の範囲の中でしかできないが、自分がその語られている話の中に入り込んで登場人物に成り代わり、その時の気持ちを感じられるかどうか。「感情移入」という言葉も使えるかもしれない。それができる話ならば自然とその話を“聴ける”し、私にとって意味がある経験になる。

 知識欲はある。私は自分で旺盛な方だと思っている。だから興味・関心がある分野について新しい知識やテクニックを学ぶ機会は非常に有益で、そういうチャンスがあればどんどん参加して、新しい刺激を受けたいと思う。しかし歳を取ったせいなのかもしれないが、知識とかそういう難しい話ばかりだと、心が講演者から離れて行ってしまう傾向がある。耳を傾けてはいるが、いつしか「聴」いておらず「聞」きに入ってしまっているようだ。集中がいつの間にか途切れている。
 繰り返すが、知恵を深めたいと思っている。それは本当に欲していて、欲張りかもしれないが、講演者の先生方には“身を切って”話をして欲しい。私は彼らの人生が知りたい。何故そういう風に読めるようになったのか、どんな苦難があってどんな境地にたどり着けたのか。恐らくは私の想像を絶することがあったかもしれない。でももし理解できなくても様々な人生に触れてみたい。そうでないと心が会場内をさ迷ってしまう。視線が腕時計の針に落ちてしまう。まさに一冊の素晴らしい本を読むような経験を生の講演会でもしてみたい。

 あの本をあんな風に押さえられるのは、凄いな~

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