Punishment

投稿者: | 2021-09-13

 バチが当たるという考え方があると思う。悪事を働いたせいで、災いが降りかかるというような意味。「悪事に対する神仏のこらしめ」と辞書にある。因果応報を説明する一つの側面とも言えるかもしれない。「あんなバカなことをしたからバチが当たったんだ」と誰かが怒られていて、何となく否定できない自分がいる。そういう考え方が人を更生させることもあるのではないか。「世の中にとって良いことをしなさい。でないと神さまの怒りに触れるよ」。ある意味で一種の脅しではあるが。

 けれども私はそれは真実ではないだろうと思っている。人間が間違いを犯したからと言って、神さまが罰を下すようなことはないのだろうと信じている。一見、因果応報のように見えることは世の中にはたくさん起きるが、そうなることはすでに決められていたのではないかと思う。「努力すれば必ず報われる」ということが絶対ではないように、悪事ばかりを働いていても幸せに暮らしている人もいることだろう。この世界で因果応報が完全に成立するのならば、もっと良い社会になりそうなものだが、それも私サイドの一方的な見解なのかと思う。私が良いとか悪いとかと下している判断も、もしかして神さまの前では逆なのかもしれない。私の考えが及ぶ範囲の中で神さまを理解しようとしたり、世界が動いていると捉えたりするのはあまりにも無理があるし、傲慢だ。私が知る以上に世界は複雑で混沌としている。ただ、私にはすべてが神さまのご計画のままに推移しているように思えてならない。

 新型コロナウィルスの感染拡大は、私はバチが当たった結果だと思ってはいない。東日本大震災もしかりだ。人間の行い、例えば自然環境破壊だとか、人種差別だとか、戦争をしている罰として神さまが人間に与えた「こらしめ」だとは思えない。多くの人々が今日もコロナで亡くなっている。亡くなった方々とそのご家族には本当にお悔やみを申し上げたい。痛ましく悲しいことだ。私も友達が一人召されている。
 私は考える。考えることは、何故神さまは私たちにコロナ禍をお授けになったのかではなく、私にとってのこのコロナの意味とこれからどう生きるべきかだ。そんなに簡単に答えが出るとは思っていない。出るとしても考え果てた挙句のまたずっと先のことかもしれないが、恐らく考えずにはいられないだろう。

 一人一人に神さまがついていて下さるように、それぞれにとってのコロナの意味も違うのだろう。他者のコロナを私が背負うことはできないのだと思う。だから「人類にとって」のコロナを考えることは無意味だと思うのでしない。神さまの意図をくみ取るような真似はできない。けれども自分の感じるところを他者と話し合うのは良いことだと思う。自分の中のコロナの意味が揺さぶられ、深まるだろうから。それは大切な「寄り添い合うこと」に他ならないと思う。
 最後にコロナを通してこれまでに改めて確認できたことを記す。「死ぬことが本当に恐い」、「全てを司る神さまへの恐れ」、「当たり前の日常の有難さ」、「コロナをいい言い訳にして“おつきあい”を断り、安堵している偽善者の私」、「祈り続けるしかできない」。

 努力しないで報われることは、まずないけどね。

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