地に足を着けて

投稿者: | 2021-09-22

 母親にスマホの使い方を教えていた。私もそれほどスマートフォンに詳しいわけではないが、写真を撮って送ったり、撮った写真を消去したりという本当に初歩的な操作方法をレクチャーしていた。母は78歳。簡単な操作方法ではあるが、母にしてみれば大変なチャレンジである。
 動画の再生画面で、「真ん中の▶マークを押せばいいんだよ」と教えた。母は必要以上に力をいれて▶を押し込んでいた。母にとっては▶マークはTVリモコンのボタンのような物で、押し込まないと作動しないらしい。私は「力入れすぎだよ、もっと優しく押さないと壊れちゃうよ」と言って促すと、「私は全てにおいていつもそう!力を入れすぎるの!!」と変なスイッチが入って妙に力強く反省していた。私は「そんな大げさな」と苦笑いしたが、何というか、血筋というか、「やはりオレはこの人の子なんだなぁ」と思わされた。そういうちょっとしたことでも生真面目に考えてしまうところはそっくりだ。

 スマホの画面を押し込むようなことはしないが、私もたいていの事には力が入りすぎる。例えば水泳。毎回力を抜くことをインストラクターから指導される。分かっていても真剣になればなるほど、肩や胸など色んな箇所につい力が入る。体が水中に沈み込みそうな時こそ力を抜いて体勢を整えればいいのに、反対に溺れまいとして慌て、力んでしまう。力むほどに手足の動きはスムーズさを欠いていく。たまに何かの拍子で力が抜けた時は、意外なほどスムーズに泳ぐことができ非常に気持ちがいい。でもその状態を維持することが難しく、なかなかうまくいかないものだ。修行はまだ続く。

 本を読む時もそう。一字一句逃さずに読んで、本を丸ごと全て記憶してやろうとする。できたことはないし、できるはずもない。当然だ。でも私はそれをやろうとしている自分がいることをどこかで感じている。そんなのは無理だって分かっているつもりでも、力が抜けない。挙げ句の果てに力尽き、中途半端に終わってしまったりする。いくつになっても学べない。
 どうして私はそんななのだろうと考える。そういう「わきまえない無謀さ」が私の長所である部分もあると思う。自分で愛おしく思わなくもないというのが本当のところだ。回りくどい表現で申し訳ない。しかしそこは一段階成長したい。私は自分の力を過信している。いやハッキリと、「間違っている」と思う。チャレンジ精神や恐れずに立ち向かう勇気はとても素晴らしいと思うが、自分の能力がどこまでも限りなく発揮される「架空の世界」で生きることは、もうしたくない。自分を諦めて、もういい加減目を覚ませたい。

 「自分を信じて頑張りなさい!」というセリフをよく耳にする。私は自分が一番信用ならない。やろうと決めたことを続けられないし、日替わりでコロコロと心持ちが変わるような自分をコントロールできない。信用できない人を信じられるものだろうか。そこに、その矛盾に、最近気づき始めたように感じている。
 信じられないなら信じなくてもいいのではないか。それでもどうしても何かを信じないと生きていけないようならば、自分の他にきっと信じられるものがあるように感じてきている。

 その“反省”に、すでに力入りすぎなんだけどね

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