創造物

投稿者: | 2021-09-24

 右の上の奥の親知らずの歯がない。大学生の頃に歯医者で抜いたのだ。もうちょっとよく覚えていないのだが、その抜いた歯か、隣接する歯だったかが虫歯になったので当時治療をしてもらっていた。抜いた親知らずの生え方が宜しくなく奥から中心へ向かって「横方向」に伸びているそうで、治療してもゴミが溜まりやすく、今後も虫歯になりやすいという説明があった。抜いてしまえばその心配はなくなるということで、抜くか抜かないかの選択を迫られた。アルバイト先の店長やみんなに少し話をしてみると、「そんな簡単に抜いちゃっていいの?あんまり抜く人いないよ」等と、抜くことには消極的なアドバイスをもらっていた。考えた結果、抜いてもらった。何となく、私らしくない決断だったなぁと思っている。

 抜く時はとても大変だった。と言うよりも歯医者さんが大変そうで、私は仰向けに寝ながら動かず、気持ちが動揺しているだけだったのだが。まだ20歳そこそこの年齢だったせいなのか私の親知らずもかなり元気だったようで、なかなか抜けてくれない。歯の根元が歯茎の奥深くまでしぶとく根を張っているようだった。麻酔をかけた後、ペンチのような器具か何かで歯医者さんが私の親知らずをむんずと掴み、力尽くで引き抜こうとするのだが、これがなっかなか抜けない。驚いたのは、私の頭部がそのまま少し空中に引き上げられてしまったこと。感覚としては口の中の上顎の一点を固定されて、機械で持ち上げられている感じ。口はめいっぱい開いたままだ。歯の治療という意識は飛んでしまった。麻酔が効いていて痛みはなく、だからなおさら何をされているのか分からなくなっていた。歯の治療にしてはダイナミックすぎた。「やらなきゃよかった」とその一瞬思ったことを覚えている。

 「虫垂炎」と正式にはいうのかな、昔は「盲腸になった!」と騒ぐ病気があった。下腹部を切って内蔵の悪い部分を切除するのが当たり前で、遅かれ早かれ誰でもいつかはかかる病気のように捉えていた。嫌だなとずっと思っていた。しかし現代では「ちらす」という方法を使い、切除することを避けるようになっていると聞く。もうお腹を切らなくていいのだ。
 「人間の身体には切除しなければならないような“余計な部分”はもともと備わっていない」という考え方があると聞いたことがある。これが医療現場を「切除をしない方向」に進めた最大の要因なのかもしれない。一見無駄だと思い込んでいたものがやがて役に立つ事なんていくらでもある。
 虫垂炎に限らず、身体にメスを入れずに済む有効な方法があるのなら、なるべくその方向で検討した方が良いのではと思う。

 反対の左上の親知らずを抜くことはしなかった。歯磨きで左のその辺をフロスで掻き出す時、毎朝のように“今は亡き”右の親知らずのことを思う。確かにあの時あの歯医者が言ったように、右奥の歯磨きは容易だ。歯ブラシが簡単に奥に届くし、結果的に虫歯にかかる頻度は低い。しかし何か物足りない。左側はキレイにするのに毎朝本当に手間も時間もかかる。出来の悪い歯たちだ。でも何だか愛おしくも感じている。
 合理的に考えれば抜いて良かったし、左も抜けば楽だったかもしれない。でもそうじゃないんだろうと思う。「右の親知らずも面倒を見たかったな」と思うのはカッコつけすぎだろうか。失って初めて存在価値を痛感することはよくあること。それも経験の内だ。
 無駄なものは無いんだなってつくづく思う。だってもう口の中にはいないけど、あの右の親知らずは私の中でこうしてまだ息づいている。

 すぐに「抜きましょう」という歯医者様には、お気をつけを。

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