オチ

投稿者: | 2021-09-27

 「天声人語」という、私の高校時代には「毎朝の教本」と呼べるほど、優れた文章として祭り上げられていたコラムがある。高校や大学の時はあまり熟読しないまま、儀式のようにとりあえず文字づらを目で追っていた。「うまいな~、さすがだな~」と思うことはあっても、「最高だ~!」などの強烈な印象が残っていることはほとんどない。学識のある方々には価値のある文章かもしれないし、そう言いながら今もなるべく毎朝読むようにしてはいるが、正直そんなに大騒ぎする程の感銘を受けることはあまりなかったように思う。まぁこの短さで感動を誘発させるような文章を書き続けることは、かなり難しい作業であることは疑いようがないのだが。

 つまり、言い訳と捉えられるのを覚悟で書くと、毎日良い文章を書き続けることは相当に難しいということ。あの天下の「天声人語」様でも傑作続きではない。しかし続けることに意義は必ずあると今は信じている。オリンピックでもあるまいし「参加することに意義がある」では仕事としては成り立たないが、仕事という訳でもないので、意味が読み解けない失敗作の日も温かい目で見守って欲しい。ただ毎日真剣に立ち向かってきたし、これからも頑張りたいと思う。

 一つの型にこだわって書いてきた。4段落プラス一言。どうしてもこの型に収められなかった日は何日もあるが、大体はそんな感じに仕上がっているかと思う。内容が起承転結にキレイに分かれての4段落では決してないけれど、その方がリズムが出て読みやすいかなと思っての試みだ。前後をくっつけたり内容を調整したりして、無理矢理に「4段落」にしている時もある。ちょっと変に意地を張りすぎだろうか。
 誰かに書き方を教わったことはなく、でもこれから先も教わるつもりはなく、このまま自分の思ったように書いていこうかと思う。この時間だけはいろいろ制限がかかることなく、自分の好きにすることを許してもらいたい。

 そして、最後の一言。これを考えるのが非常に難しいのだけれど、ここが一番“私らしさ”を出せる部分だと思う。照れ臭さを払拭するためであり、愚痴であり、弱音であり、カッコつけであり、ジョークであり、願いであり、時には本音であったりする。私としては、ここは一発センスが問われる箇所であるし、また性格・人間性が露わにされる危険な場所でもある。ここが自分的に“決まる”とすごく気分がよく、同時にホッと安堵感に包まれる。「今日も書けた」と。
 この「最後の一言」に関しては、私にとっては“オチ”になる。「終わりよければ全てよし」とはうまく言ったもので、最後にちゃんと“落とせる”かどうかに、その日の努力の全てがかかっているといっても過言ではない。だからという訳ではないのだが、少しでもうまく落とせるようになるために、YouTubeで「古典落語」を聴き始めた。これが正しい勉強方法かどうかはちょっと分からない。ブログと落語がホントにうまく結びついてくれるのかは、こればっかりはやってみないと。もし今後、私の「最後の一言」に、例えば“キレ”みたいなものが新しく出てきたとしたら、、、うん、やってみる価値はありそうだ。

 天声人語は、何人で回してるのかな~?

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