理由

投稿者: | 2021-09-29

 以前に犯した犯罪のせいで逃亡生活を余儀なくされていた男が、藁にもすがる思いである教会へ逃げ込む。男は幸運にもその教会の神父をはじめ皆から親切にされ、しばらく奉仕活動に勤しみながら信頼を獲得していく。ところがその男は恩を仇で返すように、教会にあった銀食器を盗み出し、売り飛ばして私腹を肥やそうと逃げ出してしまう。やがて警察に捕らえられた男は、盗んだ食器ごと神父の前に突き出される。前科のあるその男にしてみれば絶体絶命のピンチだ。この場面でその神父が警官に言った言葉が、子供向けの絵本などではよくある展開なのかもしれないが、私にとってはとても意外で心打たれるものだった。「この食器は、私が彼に譲ったものです」。

 これは「レ・ミゼラブル」というミュージカル映画の一部で、私がとても好きな場面だ。アクションあり、もちろん歌や踊りもあり、見どころいっぱいの名作だが、私は上記のシーンが一番印象に残っている。どうも最近感動することと言えば、決まってキリスト教が絡んでいることのような気がする。 「私欲を消し去って」や「他者のために尽くす」とか「自然と導かれる」等のシチュエーションが心を揺さぶる。危険な兆候と言えるかもしれない 。

 キリスト教だけが素晴らしい等という考えはもっていないつもりだし、もしそう思う人がいたとしたらそれは愚かだと思う。一人一人に信じるものがあればそれでいい。イスラム教でも仏教でもヒンズー教でも、信じて、或いは何も信じるものが無かったとしても、幸せを感じながら人生を過ごせるのなら、誰かが何かを言う必要はないのではないか。
 だから私は私の人生を生きようと思う。他人の人生に関心が無いというわけでは無い。しかし人の見よう見まねで何かを信じることはできないし、私が信じるようには誰も信じられないと思う。昨今「多様性」という問題が巷で関心を集めているようだが、私の感覚では人間「多様で当たり前」で、寛容の是非も何も無くそれ以前の問題だと思っている。自分の心の声に耳を傾け、感動するものに感動し、信じるものを信じる。それしかできないし、それでいいのではないか。何人も他者の人生は生きられない。
 信じたいものを信じる理由、そして愛したいものを愛する理由を、私はずっと探し続けているのかもしれない。「愛したい理由」に万人が納得できる、理性的で且つ論理的な説明をつけようとしているのかもしれない。私ならばその説明にいつかたどり着けると、自分の能力を過信し続けているのだと思う。信じたいとか愛したいと私に思わせてくれている何かが神さまの御業の一つならば、そもそも私の中で説明がつけられる性質のものではない。服従でいい。

 それぞれがそういった一つの「自立」をなし得た上で、様々な関わりを互いに持ち合っていけるのなら、それはとても素敵なことだと思う。自分が培ってきたものや感じることを伝え合い、分かち合えれば、素晴らしい関係を築くことができるのではないかと夢想する。そしてそういう関係がたくさん繋がれば、そこにはきっと「平和」と呼べる自由な世界が拡がっている。

 あの「♪民衆の歌」、耳から離れないよね。大好きです。

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