泣ける時

投稿者: | 2021-10-11

 昔、あるトップアイドル歌手の「うそ泣き」が話題になったことがあった。彼女が人気絶頂の新人だった頃は日ごろの歌番組や、歌手のための賞レース特番が隆盛で、恐らく視聴率も相当高かったのではと思う。彼女が何かの賞を受賞した瞬間に、嬉しくて顔を歪めながら泣いている様子がアップで映し出された。けれども頬をつたって流れ出ているはずの「涙」が確認できない。彼女が「涙が出ない体質の持ち主」ということも考えられハッキリしたことは誰も言えないが、観る人の感動を一層大きいものにしようと、人気をより強固なものにしようと、“演技”した可能性が指摘された。果たしてあれは本当に「うそ」だったのだろうか。

 日本人にとっては特にそうなのかもしれないが、「涙」の力は大きい。涙を流している人を見れば、理由は何にしろ、その人の心が大きく動いていることが見て取れる。強い感情が表に出ている証拠とも言える。可哀そうに思ったり、同情したり、一緒に喜んだりなど、見る側にも感情の伝染が見られる場合が多いと思う。「泣く姿」は普段あまり感情を表現しない“控えめな”日本人にとっては、ここぞとばかりの切り札になるのかもしれない。涙を意図的に出し入れできる技術があればの話だが。

 最近は歳を取ったせいか本当に涙もろくなってしまって、映画や本やニュースや講演など、ちょっとした外からの刺激にすぐ涙腺が反応してしまう。「もらい泣き」してしまうのだ。困ったものだが、こと自分に関してのことでは、さほど「泣く」ということはない。自分に起こった悲しい出来事に打ちひしがれたり、失敗して落ち込んだり、何かを達成できて喜んだりという理由では涙は出て来ない。まぁそれが普通のおじさんの平均的な佇まいかなとも思う。
 ところが、これが不思議なもので、自分のことでも自然と涙が溢れてしまうような事態が起こるようになってきている。それも人前で。これは「涙もろい」等とは次元が違うレベルの話だと思っている。

 それは「愛」を感じた時。すなわち自分が「愛されている」と心が直感した時。こんなことを外に向かって恥ずかしげもなく書くこと自体、私の中で大きな変化が起こっていると言わざるを得ない。でもそれは喜ぶべき変化だと思いたいし、誇っていい進化だと捉えている。
 そんな涙が流れた後に思うことは、「あ~、オレは愛されたいのだ」と気づいたこと。自分は愛されたい人間なんだと認識したこと。「愛」を欲しているのだな~と、そう思う。なんかそう思うと、力が抜けたような気がする。強くなろうと一生懸命いろいろ頑張って、このブログだってその一つだし、とりあえず今日時点での一つの結果として、自分が真に求めていることは「強くなること」ではないのだと分かる。「愛される」という極めて受動的な願いが私のとても深いところにあると気づいた。結局自分の力だけでは自分を幸せにはできないのだと。そう思ったら何だかホッとしたような感じがしている。
 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、自分の力ではどうにもできないからと言って、頑張ることを諦めるものではない。試行錯誤したからこそ、ここに立つことができる。むしろ益々やらなければならない。もっともっと本当の自分を探したい。

 日本のドラマとかって、泣くシーンのアップとか多いし、尺も長いよね。

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