「間」

投稿者: | 2021-10-15

 ちょっとした集まりの場などで、誰も話さず、「間がもたない」ということがあると思う。私は沈黙がもたらすあの「間」を嫌う。友人や同僚などよく知っている仲間の中ならばそういう雰囲気にはまずならない。しかし初対面の人やコミュニケーションをとるのにまだ気を使い合うくらいの知り合いであると、空気が読めないというか、あの時の気まずさったらない。とにかく何でもいいから何かしゃべって、沈黙を埋めようとうろたえる場合が多い。自分が「いい人に見られたい」等という意識が働きすぎるのだろうか。私としては長年自然とそうなってしまっているので、ちょっと改善策を見つけにくい。それともそういうところも私らしさを作っている一部なのであって、そのままうろたえて抗い続ければいいだけのことだろうか。ちょっと自分が損な性格のようにも思える。

 一方で沈黙が言葉以上に語るという場合があることも知っている。先日テレビで、ある女性キャスターがすでに亡くなっている有名な男優の方にインタビューした時の様子を振り返るという番組をやっていた。そのインタビューシーンで、その俳優が一つ一つの質問を受けて答えるまでの「タメ」というのか「間」と呼ぶのか、時間の長いこと長いこと。じっくり熟考しているのだ。その「間」が非常に味があって、深み重みがあって、また一所懸命に答えようとしている真摯な態度が十二分に表現されていて、素晴らしかった。あんなに引き込まれたいいインタビューは観たことがない。
 逐語してみれば、そんなに大した答えはしていないかもしれない。しかしあの「間」があったからこそ偉大なインタビューになった。それは彼女とインタビュー制作スタッフの功績だと思う。「待つ」こと、すなわち良いインタビューになるかどうかは、沈黙を恐れず「いかに待てるか」にかかっていた。

 私たちが行っている聖書研究会でも「間」が長いことがある。ちょっと将棋に似たようなところがあるかもしれない。相手が何を言うかジッと待つ。「間」の長さは全く気にならない。その間に相手が何を考えているのだろうと必死に推測してみる。自分に置き換えて想像してみる。静寂が緊張感を増す。そう、私たちは考えを引き出すために「待つ」ことがとても大切なことを身体で知っている。だから自分が考える番になっても、答えが見つからなくて焦るには焦っているのだが、時間がかかっていることに対しての憂いは一切無い。

 こうして考えてくると、「間がもつかどうか」ということは相手への信頼度の深さに依るように思われる。その「間」を相手に預けられるほどに信頼できる間柄かどうか。ちょっと逸れるかもしれないが、気の合う人となら会話のテンポも合って話も弾む。でも反対に知り合って長い人でも、どうしてもうまく話せない人っているものだ。何を言ってくるか予測できないという不安があるのかもしれない。
 そしてもう一つは人に「間」を任せるには勇気が要るということ。やはりあまりよく知らない人をやたらと頼ることはできないが、そこの恐さを乗り越えて待つことができた時、新しい何かが生まれるかもしれない。誰にでも、たとえ初対面の人にでも、警戒心を取っ払い、「愛」をもって接することができれば、勇気が持てるだろうし、「間」なんて気にならなくなるのかもしれない。そこまでになるにはまだまだ修行が足りない感じだ。

 小さなことを、考えすぎかな~?

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