ある程度プレッシャーがないと、やる気が起きないというのが正直なところだ。変に余裕があると怠け癖が出てしまう。追い込まれないと動かない。そんなもんかなと思う。学生の頃は日ごろからコツコツと勉強しておけばテスト前になって慌てることも無いのに、どうしてもそれができない。そこでできる人とそうでない人の差が出るんだろうなと思う。能力の差なんて大して無いんだと思う。「性格の差」とでも言えるのだろうか。
責任を持つということの意味を学生の頃は分からないから、無責任に自分の成績の行方を投げ出してしまう。私はそういう生徒だった。学歴社会の是非の議論は今日はちょっと置いておいて、私も受験競争の真っただ中で入りたい高校や大学への入学を目指していた一人として、そういう現実と責任から逃げていた生徒だったことは認めなければならない。今考えると、「なりふり構わず熱中して勉強した」と胸を張って言えるような姿勢ではなかった。何かいつも言い訳を探して本当に集中して勉強に向かうことから逃げていたように思う。今のように「仕事」と割り切ってやってしまえばできないことも無かっただろうに、残念ながら当時は「仕事」の本当の意味を知らなかった。
まぁ、今さら何を言っても言い訳にしかならないが、月並みだが、「必死に勉強して、良い大学へ入って、良い会社に就職をして」という未来に“トキめかなかった”ということは言えると思う。むしろそんな風にはなりたくなかった。自分の未来にはもっとエキサイティングでドキドキワクワクする毎日が待っているような気がしていた。若者って、でも、そういうもんじゃないだろうか。今書きながら、若い人たちはそれでいいような気がしてきた。どうして私はもっとそのワクワク感を追い求め、突き詰めなかったのだろうと思うくらいだ。真に「これだ!」と思える何かに出合えなかったということだろうか。
勉強を否定することはできない。学ぶことを止めてはダメだと本気で思っている。自分を訓練し知識を広げ深めることは、その上がないくらい大切なことだと思う。でもそれはきっと良い会社へ入るためにするのではない。私は正しくそのドキドキ感を突き詰めるために学ぶべきだと思う。そのために学校へ行くのだと思う。なぜその対象にワクワクして惹きつけられるのか、自分は何を望むものなのかという「問い」は大いなる学びだ。本気になれれば、その対象に対しても必死に調べるだろうし、繋がって誰かと友達になれるかもしれないし、そうするとドキドキの世界がドンドン広がっていく。若者って、人生って、そういうことで良いのではないだろうか。
「勉強しなさい」と先生や親や大人が言う。仕方がない。先述の通りそれはある意味で正しい。しかしそれよりも大人の最も大切な仕事は、子供たちに世界の様々な要素を紹介してあげることだと思う。つまり選ばせてあげること。その子供が何に興味・関心をもつかは誰にも分からない。バカの一つ覚えみたいに「いい成績を取りなさい!」と押し付けて、情熱のベクトルを「みんなと同じ」方向へ捻じ曲げてはいけない。そしてその上で心がけるべきは「何を選んでも支えるよ」という安心感を与えてあげることだと思う。愛情いっぱいに。
これって、学歴社会批判になっちゃったかな~?