自分を信じること

投稿者: | 2021-10-26

 「頑張ってますか~!?」と激しく叫ぶ人がいる。どこか馬鹿にしたような目線でその人を見ている人が多いのだと思う。「また訳が分からんことを言ってるよ」みたいな。本人がどこまで深い意図をもって、そう叫んでいるのかは分からない。「頑張ってますか?」は「熱く生きていますか?」と同義だろうか。その後には「私は頑張ってますよ~」というのが付随するのかもしれない。とにかく意味深に捉えてしまう自分がいる。

 「頑張りたいけど頑張れない」というのが正直なところではないだろうか。「これをやってみよう」と思い立ってはみるものの、実行する勇気が持てず様々な言い訳を見つけては当て込み、頑張ることから逃げていく。永遠にこの繰り返しだ。結局覚悟が足りていない。実行する強さがない。何度も繰り返しているから、言い訳の作り方だけは巧みになっていく。もしくはやっているように見せかける詐欺テクニックの方が向上していく。そんな人間にはなりたくなかった。
 そろそろ気づいてもいい頃だとは思っている。そんなダメな自分が本来の自分なんだと。どこかで「自分はこんなんじゃない、もっと“できる”人間だ」と信じていて、つまり自分をまだ諦めきれない。でももうそろそろ気が付いてもいいじゃないかと思う。なりたくないと思っていた人間像が、私の正体なのだ。
 これがなかなか受け入れられないのも事実だ。無理もない、そんなこと誰だって認めたくないと思う。「辛くて挫けそうなときは、自分を信じて頑張りなさい!」な~んて誰かが言っていた。私もその通りだと思っていたし、何度かそうして困難を乗り切ってきたこともあった。「嘘も方便」とはよく言うが、しかしもう誤魔化しが効かない限界に近付いてきたように思う。自分が信用できない人間であることを徐々に受け入れ認められるようになってきている。信用できない人を信じろというのは、そもそもさすがに無理がある。

 この私の認識が正しいとすると、言い訳作りや自分に嘘をつく行為だったかもしれないが、そうだとしても私は今まで相当無理して頑張ってきたんだと思う。間違いだろうが何だろうが、自分が信用に足る人間だと信じていたし、もとより自分のことを信じないで他の誰を信じろと言うのだ。にも拘らずその信頼をいつも裏切ってしまう自分を諦めず、よく一緒に歩んで来られたなと感心してしまう。かなりキツかったはずだ。我慢して力も必要以上に入っていたことだろう。
 「大人になる」とは、自分という人間を一つ外から見つめることができるようになることを言うのかもしれない。今、「自分と一緒に歩んできた」と書いて、そう思った。自然とそう書いてしまった。「自分が自分と一緒に歩く」という描写は、ちょっとオカルトチックで気味が悪いが、でもそれが今の気持ちを表現するために最も適した言葉だと思う。

 だがしかし、徐々にダメな自分を認められるようになってきたと言うだけで、「気づき」の段階を脱していない。これが正しい解釈なのかどうかも判然としていない中で、やはり藻掻くしかない。ダメな自分をかばい信じ続けるにしろ、ダメな自分を受け入れてダメなりに精一杯できることにチャレンジしていくにしろ、いずれにしても「頑張る」しかない感じだ。

 「頑張ってますよ~!!」

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