視覚

投稿者: | 2021-10-27

 神さまにお祈りをする時は「目を閉じる」。それはもう毎日当たり前の習慣になっているので、そういうものだというか、それで良い。反対に目を開けたまま祈る人っているのだろうか。私は見たことがない。少なくとも私の場合、神さまに思いを届けるようとするには、肉体的に具体的に両目を閉じないとできない。
 「さて、今日はブログで何を書こうか」と書く体勢に入る時は、必ずまず「主の祈り」を唱える。つぶやくような小さな声を出して唱える時もあれば、外界へは全くの無音で心の中だけで暗唱することもある。いずれにしても目をつぶり、顔の前に指を組んでお祈りする。心が落ち着かない時は何度でも唱える。段々集中できてきて、いざネタに思いを巡らせる“シンキング・タイム”に入ると、目を開ける。目を開けていないとネタに巡り会えない。夜間に疲れている時などは、集中できると反対に眠気に襲われ目をつぶってしまい、そのまま眠ってしまうことも茶飯事だが、うまく眠くならないでいられた時は必ず目を開ける。

 不思議なことに祈る時は目を閉じ、ネタを考える時は目を開ける。私としてはどちらもそれ以上できないくらい集中している時間帯なわけだが、その点で決定的に異なる行為になる。ネタを考えている時は目を開けているだけでなく、部屋のカーテンを開け放って、夜でも昼でも関係なく外が見える環境が望ましい。閉めきった部屋ではダメなのだ。窓から見えるものを、例えば川の水面だとか木々や小鳥等々をネタの対象にできるからというわけではない。まぁ外が見えた方が気が晴れるという現象は否定しないが、確固たる理由は見つけられず、“何となく”としか言えないのだが。実際に何かを凝視しているわけではなく、周辺視野というのか、広い範囲をボウーッと眺めている感覚だ。試しに何度かカーテンを閉めてやってみたが、どうしてもネタが浮かばず、時間の無駄に気付いて諦めた。ちょっとその辺は自分ではコントロールできない部分のようだ。

 そんな経験を通して私にとって『目』は、本来の役割の他に、「私の心と外界を繋ぐ装置」としての側面を持っているようだ。そんな感じがしている。よく「心の目で見なさい」とか「見えないものを信じなさい」という言葉を耳にする機会に恵まれる。そういう表現はともすると「目に見えるものは真実ではない」とさえ捉えられる響きがある。しかしそういうことではなくて、目を開いていないと、私独自の心の問題を他者と共有するためのきっかけを探し出せないという現実がある。

 目を閉じてしまうと、眠くならなくても、自分の理想や想像の世界に逃げ込んでしまい、現実の世界をしっかり認識できなくなってしまう感覚がある。それではブログは書けない。そうでなくても“思い込み”が激しい文章で、読んでもなかなか理解してもらいにくい内容なのだから、できるだけ共有可能な分かりやすい表現を使わなければならない自覚がある。心の世界を保ちつつも、一人でも多くの人に読んでもらいたい。だからやっぱり目を開くことは私にとってはとても重要で必要な行為だ。
 極度に集中力を高めながらも心が落ちついた瞑想状態のような中で、目を開き、外の景色をボゥーと眺めながら思いを巡らせる。ネタが降りてくるシステムは、いつもそんな感じだ。

 分かってもらえるかな~?この感覚……。

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