保全

投稿者: | 2021-10-31

 「オーシャンズ・エイト」という映画を観た。ハッキリ言って、何の深みもない映画。なるほど豪華女性ハリウッドスター陣が集結し、Cartierやvogueなどのファッション業界を巻き込んで制作された娯楽大作と言えるだろう。何故か世界的な女性テニスプレーヤーも何名か出演していた。そういう、内容的には少し物足りなさがあったとしても、野球でいうところの「オールスター戦」のような“お祭り”があっても私はいいと思う。勝った負けたという、本来は一番大切な日常のシビアさはちょっと脇に置いて、個々のキャラクターを楽しむような「息抜き」があってもいい。映画に話を戻すと、涙で画面が見えなくなるような感動的な作品がありつつ、この「オーシャンズ・エイト」のように、エンターテイメント性に特化した作品があって、だから映画は素晴らしいと思う。好き嫌い、観る観ないは私たち観る側に委ねられている。

 正直に言って、私はこの映画を楽しんだ。意外に思われるかもしれないが、観終わって「あ~、終わっちゃった」と少し寂しかった。終わって欲しくなかった。観ている間、何と言うか、何も考えずにいられた。息抜きできていたような感覚で、終わってしまって、一瞬だけふと「また考えなきゃ」と嫌気を感じた。考えていなかった時間が楽で楽しかったという証拠で、そこで癒されていたんだと思う。
 「考えること」を、私はきっと好きだと思う。不得意の分野にはあまり触手が伸びないが、気が付くといつも何かしら考えているような気がする。或いは眠っている間であっても。しかしメイン的な課題である「自分はどんな人間か」を考えるとき、それは時に自分を痛めつけるような行為になることもある。辛い時の方が多いかなと思う。自ら進んで自分を追い込んでいるという訳だ。少しマゾヒスティックな兆候があることは否定しない。

 アメリカの野球、メジャーリーグでは先発投手はだいたい100球を目途に交代する。勝っていても負けていても、記録がかかっているような場合を除いて、まるで規則があるかのように必ずマウンドを降りる。力を使い果たしてしまっては、次の登板機会に差し障りが出てしまうからだ。日常の保全のためと言える。
 しかしシーズンがクライマックスを迎え、ワールドシリーズと呼ばれる決勝戦シリーズに入ってくると、もはや投球数の暗黙の規制は取っ払われる。「次」を考える必要がほぼなくなるからだ。死力を尽くしての戦いが繰り広げられる。疲労やちょっとした怪我などはお構いなしで、一流の選手たちが体力と精神力のギリギリの世界でしのぎを削る。そういった極限の次元で起きる出来事だからこそ、人々の心が動き、記憶に残るような新しい歴史が生まれる。

 限界の先にこそ、恐らく、希望があるのだろう。私もそれを感じているし、狙っている。頑張って頑張って努力を重ねた暁に、舞い降りてくるものが、授かるものがあるのではないかと期待している。しかし一流のメジャーリーガーたちと私を同列に考えるのは余りにも無理があるが、原則として、「無理をしてはダメ」ということが広く共有できる事実としてあるのではないか。体力なのか精神力なのか、日常の健康を保全しておかないと安定したパフォーマンスを発揮できない気がする。たとえ私なんかのレベルでの話であっても。そうでないといずれ訪れるだろう「私のワールドシリーズ」に勝利することはできない。

 それでも、「考えること」が好き

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