もうすぐ一年

投稿者: | 2021-11-04

 こういうご時世なので飲みに出かけることをしばらく回避していたが、ようやく沈静化する兆しが見えてきたので、約2年ぶりに友人と飲みに行ってきた。久しぶりということもあったとは思うがあっという間に時間が過ぎ、楽しく笑いが絶えない非常にリラックスできた時間になった。と同時に、こんなにも長い間人々が楽しむための行動を制限させたコロナの影響の大きさに、改めて気づかされた。まだまだ気は抜けないが、100年に一度の疫病と言うことで、何とか乗り切った安堵感はある。

 皮肉な結果と言うか、私がこのブログを毎日続けてこられた理由の何%かは、コロナの“お陰”かもしれない。夜間の寝る前に書くことが多いこのブログについて、天敵は「飲み会」だろう。飲み会がない分だけ書く時間ができた。書き始めたちょうど一年前の11月はコロナのまっただ中。むしろやることがないので「何かできることはないか」と、このブログを始めたと言える部分があるのかもしれない。そういう自覚は正直ないのだが。内容の良し悪しはちょっと置いておいて、一生懸命書いていることは間違いなく、執筆に一番短くても2時間はかかってしまう。時間との闘いの部分は大きい。アッという間に時間を奪ってしまう飲み会は脅威の存在だ。

 「毎日すること」、そして「時間がかかること」と言えば、私の頭の中では「家事」が思い浮かぶ。毎日お母さんが行ってくれる、料理や洗濯や掃除や縫い物や、その他いろいろあると思う。その中でも「子育て」という“仕事”の負担は凄まじい。疲れていようが苦しかろうが、どこにも逃げられない。子供がちょっとでも悪い事をしようものなら、「育て方が悪い」等と矢面に立たされてしまう。重圧の大きさは相当なものだと思う。ネグレクトや虐待などが起こってしまっても、それは本人にしか分からない苦しみがあったのかもしれないから、絶対にそんなことはあってはならないけれども、助けてあげられなかった周りの人間もそこは考えなければならない。
 そんな重圧に晒される「子育て」を含んだ、主に家族のためにするのであろう「家事」をお母さんが毎日こなせる理由は、やっぱり「愛」なんだと思う。個人差はメチャクチャあるだろう。「仕方がなく」という人から、ホントに家事が大好きで天職のようにやってしまう人もきっといる。でもやっぱり底の部分に「愛」があるから続けられるのではないだろうか。カッコつけて言っているのではなく、冷静な分析として。母親たちが「愛に絶望」してしまった顛末は、周知のように、悲しい結果を引き起こす。病気なのでなければ、恐らく一時的に高まった感情のみでは、我が子を巻き込んだ悲劇を起こすまでには至らないのではないか。どうだろうか。

 話を戻したい。だから、たかがブログなんて子育てや家事に比べれば全然大したことはない。自分で好きにやっているに過ぎない。止めても誰も困らない。気楽なもんだ。毎日書いていることは、それは自分では自分を褒めてあげたい部分はあるけれど、世のお母さま方から見れば、「お遊び」でしかない。だから、大したことはないと思うようにしたい。それでいい。それがいい。決してうぬぼれることがないように。

 されど、ブログ!

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください