神さまの声

投稿者: | 2021-11-08

 何でも一人でできると思っていた。誰かの世話にならなくても、一人で生きていけると思う時期があった。だから都会での一人暮らしに憧れたのだろうし、実際にそうさせてもらった。そうやって無理をしてやせ我慢をした経験を通して、やっぱり一人は寂しいなと気づく。そんなことの繰り返しだったように思う。ホント最近になってやっと寂しいと思う自分を許せるようになってきた。寂しいと思って良いのだ。

 そうなってくると、やっぱり私は人と人との間でしか生きられないと自覚する。他者の存在が私を勇気づけ、支えてくれたことに気づいていく。特別に何かをしてくれたわけでなくても、或いは大っ嫌いな人だとしても、やっぱり助けられているのだと思えるようになってきた。それは時には怒りでカッとなるときもあるけれど、それでもやっぱり愛せるようになってきた。まだまだだけれども、少しずつ。

 そうなってくると、やっぱり何かをして差し上げたくなる。私なんかができることは小さなことでしかないけれど、人のために役に立つ何かをしたいと思う。自分の家族や友人のためだけでなく、もっと広く貢献したい。やっぱり自分だけ良ければいいという考え方は気にくわない。私がなりたくない種類の人間の考え方だ。はて、私はそういうなりたくない人間に、今なってはいないだろうか。大丈夫か?

 繰り返しになるが、私には恐らくそんな大それた貢献はできないだろう。でも小さいことができないのに大きなことなんてできるだろうか。できたとしてもそれは一時的であったり、偽善であったりすると思う。「小さくなことからコツコツと」と誰かが言っていたが、たとえ些細な貢献でも続けることが尊いように思う。そっちの方が凄い。何かを続けることはいつも根気と忍耐が要るし、忙しい中で単純に難しく大変な作業だ。こうして考えてくると、「継続」の対義語は「偽善」という一説が成り立つような気がしてきた。

 「根性論」は私は好きではないと思っている。「気合いが足りないからできないんだ!もっと頑張れ!!」という“けしかけ方”は私たちが若い頃によくもてはやされた教育方法だ。手段はさておいて、とにかく結果だけがひたすら求められた。
 そういう他者から強要されるような意味の根性ではなく、自分の本当の願いを具現化するための「強い意志」として「根性」という言葉を捉えるのなら、それは必要不可欠なものだと思う。根性なくして何かを継続することは難しい。しかしそれは『覚悟』があってはじめて生まれ出てくるものだと思う。

 行き場のない虚しさに襲われ、「なりたい人間になれていない自分」に気づく。「変わりたい」と決意し、どう変わるべきかを探る。必死で考え、おぼろげながら見つけた答え・自分の願いに応えるために一歩を踏み出す。それが正しい道かどうか常に自分で揺さぶりながら、方向転換を決して恐れず、後はひたすら継続する。結果的に自分が変わることができ、なりたい自分になれるかは誰にも分からない。なれないかもしれない。しかし恐らく結果はどうでもいい。一日一日に人生がある。

 重いね~、独り言ですので。

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