きっかけ

投稿者: | 2021-11-25

 私はサッカーを観るのが大好きで、特にヨーロッパでのコンペティションを長年にわたって数多く見てきた。ヨーロッパのクラブチームにはブラジルやアルゼンチンをはじめ、世界中から優秀な人材が集まり、世界一の座を狙って各チームがしのぎを削っている。
 一口にヨーロッパサッカーと言っても、国によって少しずつやっているサッカーの質が異なる様に思う。スペインは個人技を生かした攻撃的なパスサッカーを標榜し、「取られたら取り返す」というような戦術を推し進めている。イタリアは最近ちょっと変化が見られる気がするが、伝統的にまず守備を固め、相手の隙に乗じて切れ味鋭い速攻カウンターを仕掛ける。ドイツは個々の体格の大きさ・体力の強さにものを言わせ、それが理詰めで統率された組織力を持ち、技術もさることながらパワーで寄り切ってしまう感じのサッカーをする。

 そんな中で華麗さは余りないのだが、試合中に選手たちの身体から魂の炎が立ち上って目に見えるようなプレーをする国がある。旧ユーゴスラビア出身の選手たちだ。ストイコビッチ、サビチェビッチ、ミハイロビッチ、ミヤトビッチ、ボバン、スーケルetc.……。プレーヤーというよりはソルジャーと言った佇まいで、目の奥に闘志が漲っている。
 そんな選手たちに魅力を感じ、だいぶ前の話になるが、それまでは全く知らなかった「旧ユーゴスラビア連邦」という国をちょっとググってみたことがあった。セルビア・モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア他のことをその時覚え、ついでにと言っては申し訳ないが、独立紛争で起きた悲劇についても学んだ。サッカーを好きでなければ、日本から遠く離れたそんな馴染みのない地域で起こったことに、それほど興味を持つこともなかったと思う。サッカーが学びを深めてくれた。

 テレビのニュースで「新しいローマ法王が決まりました」等とバチカンの教会から色のついた煙が立ち上る映像を観たことがある。かつて私は、そういう報道は特に私の生活に関わったことではないので、「ああ、そうか」くらいに何となく聞き流していた。キリスト教のことを4年ほど前から真剣に考えるようになって、「これはあながち他人事ではないぞ」と遅ればせながら思うようになった。私が今本気で学んでいるキリスト教総本山の頂点を担う人を決める選挙の話なのだ。同じキリスト教でも私はプロテスタントなので、カトリック系のバチカンとは宗派が違い少し距離を感じるのだが、それでもルーツは同じで、使う聖書も同じだ。やはり他人事ではない。
 そうなってくると、今は新約聖書のイエス様が生きた時代、つまり「福音書」を学んでいるわけだが、と同時にそれ以降キリスト教がローマ帝国で認められ世界中に拡がっていった歴史を改めて考えると、私の中で「ローマ帝国」自体への関心が高まってくることを感じる。またその後の「ルネッサンス」など、私が心酔する「プロテスタント」という考え方が生まれた背景にも関心が及んでくることは、必然のようにも思う。

 本当の意味での『学びたい』という感情は、自分の関心・好奇心が繋がった先のほんの小さなきっかけから大きく膨らんでいくように改めて実感する。誰かから勉強しなさいとか「これ試験に出るから覚えておきなさい」等と言われて仕方なくやるような勉強は、恐らく心には溜まっていかない。

 ミヤトビッチ、カッコ良かったな~

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