投稿者: | 2021-11-30

 書きたいと思う気持ちがだんだん強くなってきているように感じる。大した文章も書けないくせにちょっと好い気になっているかもしれない。でも寝ても起きても常に書くネタを探して生きているような状態。憑りつかれてしまったか。ネタが決まれば書くスピードが少し上がってきたことは確かにあるようだ。不思議な感覚。一年前とは、自分で言うのもなんだが、別人のよう。文章がうまくなったという感覚は、正直ない。今でも他者が読んだときに意味を理解してもらえるかどうか甚だ不安で、夜中にガバっとドラマのように目が覚めることもある。書き終えた文を、やっぱりどうしても、第三者的な視点で読み直せない。やっぱり私の文だから。不安は本当に尽きない。

 一年後にこんな感じになるとは、まさに夢にも思っていなかった。好き勝手に自分のやりたいことをやっているだけだけど、たかがブログでしかないけれど、間違いなく一年前の私はこんなことができる人間ではなかった。この一年で成長したんだと思う。そこは誇っていいことのはず。なりたい自分に一歩近づいた感触はある。今は書くことが心の支えだ。

 反対に書くことを止めてしまったらどうなるだろう。今はそっちの方が恐い。張り詰めていたものがパリンと割れてしまうような、寄りかかっていた支えがゴリっと外れてしまうような、そんな立ち直れなくなる恐怖感がある。
 こうして考えてみると、自ら仕掛けたトラップに、まんまとかかってしまったかのようにも感じてきた。これは抜け出すにしても相当に勇気が必要な雰囲気だ。勇気については、私は本当に足りない人間なので、逃れるきっかけにするのは難しいと思う。或いはショッキングな出来事か。書くことを忘れるほどに心を奪われる何かが起きれば、自然と止まるのかもしれない。そうだとしたら、その出来事が私にとって嬉しい部類の“ショッキング”であることを祈るばかりだ。いずれにしてもしばらくは恐くて止められそうにない。

 それにしてもこうしてデータがちゃんと残っていることは凄いことだと思う。手書きではこんなにうまくはいかなかった。そして「他者が読める」という環境がなければ続かなかっただろう。常に読み手を意識したからこそ書いてこられた。こうしたインターネットの環境もそうだし、デジタルの技術の発達、そして私が培ってきたノウハウや問題意識と心の成長のタイミングなど、キリスト教との再会のこともあるし、様々な要素がこの一点に集約されているような気がする。全ての要素と言っても良い。まさに時が満ちた思いだ。
 こんな感じをベースにもうしばらく生きていきたいと思う。悪くない感じであることは確かなのだ。いつ途切れてしまうかという不安は拭い去れない。でも途切れてしまったらその時はその時かなとも思う。「またやり直せる」という自信がどこかで芽生えたような感覚もある。そう、私の手の中にはこうして連続365日分の、私だけの日記があるのだから。

 さぁ、いつまで続くかね~

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