他者が書いた文章を読んでそれにタイトルをつけることが得意だった。性格のせいか“堅い”言葉のチョイスが多くなりがちだが、企業や団体のホームページや週報など、より正式、或いは公式な立場でその文章を世間に出す時は、なかなか相応しいタイトルをつけることができると自負している。褒められることも少なくない。そんなちょっとしたニッチな分野でプライドを確立していた私だが、最近ちょっと自信がなくなってきた。そう、このブログのタイトル付けについてだ。
以前は調子よくタイトルをつけられていた。「このタイトルはなかなか誰にでもつけられるわけではないぞ~」等と、得意になっていた。しかし今日で379回目の投稿になるかと思うが、正直苦しくなってきた。大抵の場合、その日の分を書き終わって一息つき、「さて、」ということで、全体を読み直しながらタイトルを考えていく。思いついたタイトルを以前に使ったかどうか最近はもう覚えていないので、検索し、使っていないことを確認してから採用する。実際はあまり無いが、たま~に被ってしまうことがあった。毎日のことなのでなるべく一日の作業量を縮小したいのだが、続けていると予期せぬことが起こってくるものだと実感する。思わぬ作業が増えてしまった。継続の難しさがこんなところにも顔を出す。
以前にも書いたが、私の好きな詩に宮澤賢治の「雨ニモマケズ」がある。今読んでもどうしようもなく惹かれてしまう。私にとっては非常に魅力的な、心が洗われるような詩だ。私はそれほど宮澤に詳しいわけではない。彼がどのくらいの本数の文や書物を世に残したのかは調べていないが、この「雨ニモマケズ」の原文らしき文章のコピーを見たことがある。その時に気づいたのは、この有名な「雨ニモマケズ」と呼ばれている詩の本当のタイトルは、確か、「11月3日」だった。つまりこの詩は宮澤の日記の一部だったと思われ、ある日たまたま彼が書いた日記が何十年後かに私の心を捉えて離さないことになったのだ。
宮澤が週に何回とか、どのくらいの頻度で日記を記していたかは調べていない。もしかしたら「雨ニモマケズ」は単なる日記ではなく、練りに練って考案された渾身の企画だったかもしれない。分からないが、私はなんとなくシンパシーを感じる。というか、宮澤が日々の営みの中で心の底に思っていたことがたまたま表出した日が「11月3日」という日だったのかなと思うと、なんだかとても勇気づけられる。
「たかが」タイトルであるが、やはり「されど」タイトルである。単に文中の言葉を切り出して宛がわれたものではなく、雨ニモマケズの本当のタイトルを知ったことで、その詩の奥行きが拡がるというか、理解がより彩りを帯びて迫ってくる。宮澤に限らず、文章を読み終わった後でタイトルを改めて読むと、その言葉の意味合いが違って響いてくることがあると思う。私はタイトルを非常に大事に考えている。恐らく多くの書き手の方々も苦心されている場合が多いと思う。それは本で言えば小見出しなんかもそうだし、段落ごとに付けられている表題なども同じことだと思う。タイトルの付け方には、変わらずこだわっていきたいとは思っている。
タイトルが日付になったら、「こいつ、力尽きたな」と思ってください。