休み

投稿者: | 2021-12-11

 クリスマスシーズンになり、コロナでいつも通りとはいかないが、世の中何となくお祭りムード、ホリデームードが漂っている。寒いのが本当に苦手な私だがこの雰囲気はとても好き。最近少し疲れ気味で朝起き難かったりするし、「年末までもう少しだぞ」と自分の尻を叩いているような状況だ。「仕事をしなくていい」ということはこんなにも安堵感を与える。それだけみんな無理して仕事をしていることの裏返しとも言えるのかもしれない。ホントにお疲れ様だ。

 休息は絶対必要だと思う。身体と精神のバランスを保つには英気を養うという意味でも休まなければならない。ただ「休み」とは何だろうと考える。ちなみに辞書では「活動を中止して心身を楽にすること」とある。仕事をしないという意味では活動を中止するという表現は合っているが、家族サービスで出掛けたりジムへ行ったりすれば動き続けることになる。長期の休みになれば「温泉だ!海外旅行だ!!」等と、とても“休み”とは思えない忙しさに明け暮れる方たちがいる。ただ家族や友人と普段できない活動を一緒にすることは気分転換になるだろうし、心身を楽にできるということはある程度あるのかと思う。ある程度は。

 私にとって「休み」とは、いや、「心身を楽にする」こととは、「やりたいことをする」ことになるかと思う。時間が無かったり体力が残っていなかったりするために普段できないことをやる時間。辞書的にはおかしな言い方になるが、その“やる”ことが理想的な休みの日の過ごし方になる。あまりにも疲れすぎていて休みの日に何もできない場合、酷くフラストレーションが溜まり不愉快な休み明けを迎える羽目になってしまう。自分の弱さを突き付けられ最悪の気分だ。その気持ちでの月曜の朝は非常に厳しい。その弱さも隠し切れない自分の一部だと己を諭してみるが、やはり重い悔しさが残る。
 具体的には読書やランニングであったり聖書を勉強したりということなのだが、私にとってこれらは趣味というレベルは越えていて、使命感みたいなものを感じている。このブログも含めて一つ一つについてはそんなに大したことはしていない。でも今はこういった小さなことの積み重ねがとてつもなく大切なことのように感じている。

 聖書を勉強する理由は、「いかに生きるか」という私の人生の命題というべき問いのヒントを探すためということがある。けれども喫緊の目標としては、月に一度休みの日に開催している聖書研究会への発表準備ということがある。これに向けて、決められた範囲を参考文献などに当たりながら自分なりに読解していくことがまずは必要になってくる。隠された意味の理解に苦しみながら、非常にキツいプレッシャーを伴った勉強だ。
 もし聖書研究会のメンバーの都合が折り合わず、例えば「元旦に開催」ということになったらどうだろうと想像してみた。純粋にワクワクした。その瞬間私にとって聖書の学びは、仕事や趣味や資格試験など、何かの“条件”が付いているものではないと悟った。理屈ではなく一番やりたいことであり、心身を楽にする行為に違いなかった。聖書を通して自分の心の中を見ようとすることは、時に酷い痛みを伴う。精神的に余裕がある時でないと危険だとも言え、だからいつでもどこでも向き合えるという訳ではないのも事実。しかしそれが私にとっては今一番大切なものなのだ。

 休みの日に、仕事はできない

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