寛容(その1)

投稿者: | 2021-12-16

 性善説とか性悪説とか、そういう真面目な議論ではなくて、もっと大らかに楽観的に「人間はアホな生き物」という認識に立ってみてはどうだろう。関西弁でよく耳にする「アホやな~」という感覚。関西弁では愛情を込めてそういう風に人をバカにするような言い方をわざとするのだそうだ。私が言いたいのは正にそういうことで、「全くどうしようもないな~、でも人間だからみんな失敗するよね」という、「できなくて当たり前」みたいな余裕ある心持ちで人と接することができないだろうかという提案。

 何かと人は他人に期待しすぎてしまうところがある。「あの人ならやってくれるだろう」とか、「これだけ払っているのだから、やってもらわなければ困る」等と、まぁその時の状況は様々だろうが他者に依存する場合は多い。その依存度が大きいほどやってもらえなかった時の落胆は大きい。それが仕事であれば落胆度などと悠長なことを言っている暇はなく、約束が守られなかった場合、ビジネス上の信頼が著しく損なわれることになる。死活問題だ。

 私がフリーランスのディレクターとして短い期間だったが地元のテレビ局に出入りしていた頃に体感していた、「番組に“穴”を開けてはいけない」という、あの極限状態の緊迫感は本当に身体に悪い。長くあの世界で生きている人たちがどれだけのプレッシャーを毎日感じて仕事しているのかと想像すると、私はちょっと吐き気を催してしまう。
 地方であってもテレビ放送で、もしも私のせいで映像が流れない、例えばお茶の間のテレビ画面が真っ暗に落ちてしまって何も見えないし何も聞こえてこないという状況になってしまったと考えると、生きた心地がしない。実際そうなってしまったら、私への処分はおろかテレビ局への行政指導など、誰かの首が飛ぶくらいでは収まらないと思う。とにかく「個人レベルでの信頼」程度の問題では済まない。

 そういったシビアなビジネスの世界や、命がかかっているような、例えば建設工事現場などでは通用しないだろうことを知りつつも、敢えての提案である。「愛をもって大らかに、人を諦められないだろうか」。過度の期待を他者に抱いてしまい、依存してしまうのが人間の本質だと思うので、恐らく何か問題が起きた後の「心情の持ち方の提案」ということになってしまうのかもしれないが、「そうか、できなかったか」と愛をもって受け止めることはできないだろうか。
 これは約束の厳守に重きを置く私自身に、最も強く投げかけている提案である。これが良い提案かどうかはまだちょっと判断できていない。やはりみんな誰かの期待に応えるべきだと思うし、私も応えたい。しかし期待してしまうのが人間の本質であると同時に、時に頑張りきれない弱さを兼ね備えていることも本来の性質の一つだと思う。「人を信用するな」と言っているのではない。「裏切られる心の準備を予めしておけ」と言うのでもない。しかしせっかく出会えた誰かを、自分の理想や常識を盾に、貶めることはするべきではないんじゃないかと思う。

 (その2)へ続く

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