日々の生命

投稿者: | 2021-12-28

 年末と言うことで、いやぁ~少し疲れた。ゆっくり休みたいと思う。例年に比べて何か特別なことをしたということはないのだが、忙しかったというか、充実していたというか、ちょっと疲れた。コロナもあっていつも通りというわけにはいかなかったが、でもまぁそれならそれでと、方法を考えながらいろいろ対応できた部分は多い。少人数での飲み会も何回かできたし、悪い年ではなかったように思う。とにかくリモートではあるが、聖書研究会を再開できたことが何といっても大きい。オンラインテクノロジーに感謝する。

 若い頃は何か特別なことをしたいと思っていたような気がする。私の場合、具体的には映画を作るということだったわけだが、具体的な目標だけではなく何かこう漠然と「デッカいことを成し遂げるんだ!」みたいなことが頭の中に常にあったと思う。だから例えば疲れた様子のサラリーマンの方々を電車内などでお見かけして、「毎日代わり映えしない日々を、取り立てて凄いことをすることもなしに過ごしているんだろうな」と勝手に推測し、「ああはなりたくないな~」などと無礼にも思っていた。
 今こうして毎日の営みを何とかかんとかこなして、ようやくの年末を、疲れた身体と共にではあるが、迎えることができる。特に“偉大”な業績は何も残していない。恐らくあの時のサラリーマンの方々と同様に。でもこれでいいと思う。

 向上心がないわけではない。野心も目標も結構な熱量と共に持ち合わせている。まだまだ未来に向かってこんな疲れた私でもやれることはあると思っている。しかし何も成し遂げてはいないけれども、ちゃんと生きて、今年もここまで来られたことに感謝したい。そういう気持ちが若い頃は持てなかった。「生かされている」という感覚を知らなかった。少なくともその一点において、歳を重ねることは悪い事ばかりではないと確信している。

 新約聖書のマタイによる福音書6章34節に「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」という箇所がある。その世界では非常に有名な言葉だ。この箇所もそうだが、聖書についてどこか一部分だけを切り取って意味を考えることはあまりお勧めしない。できればその前後もちゃんと読んで熟考するべきだとは思うが、しかし切り取られたフレーズを聴いたときに、ハッとすることってあると思う。私は何度も経験している。ハッとして興味を持ち、そこから入っていくことも“あり”だとは思っている。
 上記の箇所に触れてハッとする人がきっといると思う。私は明日どころか5年も10年も先のことばかりを悩んで生きてきた。でもそれが普通の若い人の感覚だと思う。そうやって生きてきたことはもう取り返しが付かない。そういう過去を過ごしてきた人間なんだと、日々の生命に感謝してこられなかった男なんだと、キチンと真実を受け止めて、明日に希望を持ちつつ今日を大切に生きてゆきたい。

 「ああはなりたくないな~」って、今はオレが思われてるかもね。

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