サウイフモノニ……。

投稿者: | 2021-01-27

 「謙虚でいること」はとてもいいことだと思っている。でもどうしてそれがいいと思うのだろうかとふと考えた。理由として一つ考えられるのは、自分が謙虚な人間ではないと知っているから。無い物ねだりというか、自分が持っていないものに憧れを抱くのは私だけではないだろう。また本当に謙虚な人は、特に謙虚でいようなど思わなくても謙虚でいられるのではないか。謙虚とは他者がその人を見た時の印象とも言える。いずれにしても「謙虚」とは私にとっては憧れの佇まいの形だ。

 では謙虚とは何を意味するのかを考える。まず浮かぶのは「静か」ということ。声高に自分の考えを主張したり他者を罵倒したりということから一番遠くにある生き方のように思う。と同時に「強さ」を感じる。何ごとにも左右されず自分をコントロールし、静に徹する強さ。この強さは私が憧れる理由の一つかもしれない。強くなりたい。

 50年以上生きてきて未だ何かに憧れを持つこと自体、誰かに言わせれば、私は失格の烙印を押されてしまう未成熟体なのかもしれない。これまでの経験を活かして若い人たちをバリバリ指導していくような立場、カッコいい仕事をしているべきだと思っていた。だって一般にはあと15年も経てば定年を迎える年齢なんだから。そういう自分を理想とした時期も確かにあった。しかしその理想は実現されず、何かに憧れを抱いている。この歳になっても私の人生は思うようにはならなかった。

 宮澤賢治の「雨ニモマケズ」という詩がある。先週お邪魔したある塾の教室内の壁に貼り付けてあった。高校の頃この詩が大好きになり暗記したものだ。素朴で控えめで、優しい心をもって献身的に人の手助けをする。派手さはないが、謙虚な生き方が素晴らしい。理想に破れ、行く先がおぼろげに見える気がするようになってきた今日この頃、自分の原点を見つめ直すようにこの詩を改めて味わう。どこからか入ってきた刺激に左右されるのではなく、自分の心の声にじっと耳を澄ませるべきだ。そして自分の理想通りに事が運ばなかったことを嘆くのは止めて、これまで生かされて人生を営むことができた恵みに感謝しよう。私一人の力では何もできなかったし、これからもできない。嘆くのならば未だ神さまを信じ切れず、完全にお委ねし切れていない自分を嘆くべきだ。神さまとイエス様に自分の生きる軸足を置くことができた時、きっと私は謙虚になれる。

 雨ニモマケズ、不思議な魅力があるんだよねー。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください