Limit

投稿者: | 2021-01-29

 1年半ほど前に知り合いになった方が雪の多い地域の高校で教師をしている。小さな全寮制の高校でその先生は寮の担当も兼ねているので、家族みんなで敷地内の寮に住んでいる。生徒ももはや家族のようなものなのだろう。秋に訪問した際に「冬にはこの辺まで雪が積もるんですよ」と教えてくれた。えっ!と何か違う話かと思うくらい彼の手が高いところを示していた。どうも冬の出入りは2階からということらしい。ちょっと想像できなかった。彼の話によると、その地域で冬の雪の存在は圧倒的だそうだ。抗おうにも抗えない、どうしてみようもない自然の巨大な力を見せつけられ、逆らうことは不可能だそうだ。そしてこうも言っていた。諦めた時「自由になれる」と。

 雪によって限定された世界・空間の中で、できることも限られてくる。それはある面では「絶望」とも捉えられる。大地を踏みしめて力一杯走る事も、澄み切った川の流れを泳ぐ事も、具体的にも雪かきに時間を取られ普段通りに授業を受け、生活を営むことさえ難しくなっていく。そういった自由が奪われることで、無限に広がる可能性を限定され諦めることで、新たな可能性に気づくのかもしれない。あれが無いこれが無いと不平不満を言って現況を嘆くのではなく、与えられたものや環境に感謝して、その中で精一杯取り組むことが“真の自由”なのかもしれない。

 CMやビデオ作品等を作る時は必ず「予算」がある。その枠を超えて経費を使うことは原則として出来ない。もっとお金があればアレもできるしコレもできるかもしれないが、そんなことを夢想している暇は無く、予算内でできることをスタッフと必死に無い知恵を絞り合いながらアイデアをひねり出す。しかしよく考えると、反対にもし予算の提示が無ければアイデアの捻出は難しいかもしれない。選択肢が無限にあるということは選ぶ作業が無限に大変になるという事でもある。限られた環境の中で自分たちの可能性の限界を突き詰めて実行していくことが現実的な最上級の営みなのではないか。予算が大きい少ないに関わらず、真剣に制作に取り組み満足いく作品が出来上がった時は本当に嬉しい。そういう作品はお客様や視聴者にも喜んでもらえることがほとんどだ。その幸福感はこの仕事に従事する者の特権だと思う。

 来る日も来る日も雪と格闘する豪雪地帯の人が放った「自由」という言葉は重い。そこまでシビアな経験がない私が、さも簡単に分かったような言葉を使うのは心苦しいが、絶望の淵に立つ時にしか見えないだろうものの存在は想像出来る。もちろん雪国で生きることだけが絶望を経験できる唯一の術では無いし、絶望体験をするために何かをすることも違うと思う。どこにいようとも懸命に生きようとする過程で致し方なく絶望という壁に阻まれるのであって、絶望を目的にしての行動は私は意味が無いと思う。希望の春は懸命に生きた人に訪れる。

 真冬に一度行ってみたいんだよねー。

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